コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 格差社会と「人生のインフラ」2007. 8. 3

この頃は、メディアで度々出てくる言葉です。
世界で最も富の分配が平等且つ効率的で公平だと考えられていた日本の社会も
「グローバリゼーション」即ち、世界標準規格化という方針(誰の方針か分かりませんが・・・)により、
自然に格差というものが社会に生じて来てしまった。
というより「格差」というものを当然あってしかるべき、容認すべきモノとの考え方が浸透している。

年齢による格差
・教育水準による格差
・収入、経済的水準による格差
・企業内格差(パート、アルバイト、正社員 etc・・・)
・企業内格差(大中小零納企業、優良企業とそういない企業)
・個人の資格格差
・健康度、体格等、知識能力格差
・社会の扱いの格差

というものにはキリが無いくらい存在する。

人間は、平等であって平等ではない。
競争社会、弱肉強食社会といえども、競争などまっぴら「弱い者を食べる」のも嫌だという人々も数多くいるし、また、少子高齢社会になったのであるから、競争したくても出来ない人々の方がはるかに圧倒的多数になる筈だ。

以前にも述べたように、「上をめざす」ことのできる若い心身ともに健康な人ならともかく、またそういう環境にいなかった人々。
人生も後半に入り、心も肉体も競争に耐えられない、もしくは老いて病を得てそれに耐えられなくなった人々に優しくない社会が、果たして、豊かな社会と言えるであろうか。

一緒に仕事をしたいと考えている、とても素晴らしいな友人に「人生のインフラ」としての介護と医療と教育の重要性を語ってもらった時に静かな感動を覚えた。
どのような結果になるか分からないけれど素晴らしい出会いを戴いたと思った。

話はそれるが、某大手介護会社を買収した、ある外食産業の社長のW氏の話にはいつも感銘を受けるが、「何かが違う」と感じていたが、それは、一言で言えば「公」という一語に対する考え方だ。
この方は「競争原理」「市場原理」の信奉者で医療や教育や福祉にそれを経営者感覚で、国に頼らないで「公的サービス」を提供できると語っておられるけれども、「会社」という組織は絶対に損は出来ない。損をし続けては存在できないのだ。

つまり、収支はいつもプラスでなければイケナイし、そのプラスも多いほど優良とされる。

一方、「公的サービス」の提供者である国家というのは、そのような部分が多少あるとしても、「収支が一致」すれば良いワケだし、不幸にもそれがマイナスであっても、国家と国民の間のモノであれば、さらに外国に対しての借金とかでなければ親と子の借金と同じように「チャラ」でも良いような気がするが、いかがであろうか。

「国の財政赤字」というのは、このマイナスのことなのであろうが、
社会保障とか社会福祉など「公的サービス」の削減のもっともらしい「言い訳」のように聞こえる。

ちなみに、「公」という字は「ム」即ち「私」が無いという意味だ。
「ハ」というのは無いという意味で
目+ハ=貝(目が無いから貝)
口+ハ=只(ただ)
ム+ハ=公(私が無いから公)

つまり、公器、というのは私が無い器。
時々「会社というのは社会の公器」という表現される経営者がいて、それはそれで素晴らしい感性だと思うが、本当に損をしてまで存在できるかというと、先述したように不可能であろう。
所詮、キレイゴトだ。

やはり社会のインフラと同様に「人生のインフラ」は公の象徴である国家が担うべきだろうし、今現在「現実」には、そういう仕組みになっている。


追記【1】
いずれにしても「公的サービス」はこの先どうも縮小する一方であろうから
「私的サービス」の充実をさまざまな知恵を集めて、実現にしていかなければならないし、
私個人としては医療や介護については、米国のように貧しい人は公、豊かな人は民(私)というように二本立てで妥協していくのではないかと予測している。

追記【2】
貧乏の貧という字は「貝」を「分」けると書く。貝というのは貨幣のことだ。
つまり貝を分ける。貧しくなる。
世界最大の金融資産を持っていた日本国の郵便局が民営化され、解体される方向へと方針が決まった。
それこそ貧しくならなければ良いが・・・


ありがとうございました。

たくま癒やしの杜クリニック
浜田朋久


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