[戻る] |
■ 夫婦愛について | 2016. 9.23 |
先日テレビでタレントのみのもんたの夫人の死についての話題があった。 数年前に亡くされて憔悴しきった悲しみの表情で「みのもんたはこの時終わった・・・」みたいなことを述べられていて誠にお気の毒であった。 元々、仕事人間であったみのもんた氏もその愛妻の死後いかに大切な人を失ったのかあらためて気づかされて、その悲しみの深さに少しく共感をした。 「大切な人を喪失する」というケースではやはり配偶者、そうして子供であろうが両親や祖父母、時には叔父叔母というケースもあるであろうけれど、愛の対象の喪失、愛してくれた人の喪失というものがいかに悲しく心沈みその身を引き剥がされるほどの強い感情であることに間違いはないと思える。 「今度は愛妻家」という映画がある。 豊川悦司、薬師丸ひろ子、濱田岳の出演。 豊川の金髪が新鮮な佳作である。 この映画はアメリカ映画の「シックスセンス」というのと設定が少し似ていて、配偶者が死んでいるのにそれをラストまで伏せてあるというものだ。 前者は妻が死に、後者は夫が死んでいる・・・実は・・・。 アッと驚くというか合点がいく物語で、よく観るととても悲しい映画だ。 ストレスの度合いで言うと配偶者の死というのは特に愛し合っていて長年連れ添った「ツレアイ」に限っては最高度のもので、会社の倒産とか刑務所への収監より深刻なストレスを感じるらしい。 これは想像できないがチラッとでもリアルに想像してみるとどこかしらオソロシイ古井戸の底を見せられているような恐れを感じる。 夫婦のカタチというのは思いのほか千差万別であって、一般に思われているよりはるかに多彩多様で定型化していない・・・ように思える。 カタチとして定型的でも中身は地獄みたい・・・というようなカップルもあり表面的には不毛で荒廃して既に“終わっている”ような夫婦でもその底流に深くしぶとい絆みたいなものがあって、お互いの喪失の時にこれまたアッと驚くような悲嘆にくれるカップルもあったりする。 本当に奇妙キテレツ、摩訶不思議な関係性の代表が夫婦というものであろう。 これは自分自身の体験に基づくというより色々な評伝、伝記、小説から得られた知識で、実際はそれほど多彩ではないのかも知れない。 「愛妻」という言葉にはチョッピリ憧れがあって、昔、日本の電機メーカーが出した洗濯機を「愛妻号」と命名し商品の宣伝をテレビで見た時には子供心ながら或る種のトキメキを感じたものである。 筆者の父親は無類の子煩悩であったと同時に愛妻家であったようで、夜飲みに出ても母が迎えに来ないと駄々をこねて帰らなかったり、元来臆病なタチらしく酔っ払って街で事件を起こすと大概母親に泣きついて解決をしてもらったりしていたようだ。 母には夏も冬も着物を着せて台所から座敷まで7〜8mはあったと思うが醤油を忘れたり、ハシを忘れたり、お膳を運んで来てテーブルに置く寸前でひっくり返したりすると父は腹をかかえて楽しそうに笑ったものだ。 そういうチョンボな母が大好きだったのである。 妻に対してとるべき夫のとるべき道が「六法礼経」という教典に説かれていて 1.妻の人格を尊重しなければならない 2.妻を正しく愛さなければならない 3.妻に金銭、衣服を与えなければならない 4.妻に家事、育児をまかせること 5.妻の両親を敬うこと ・・・とあるそうである。 これは夫の方にかなりの譲歩を求めるものであるが、円満さや子供への影響を考えると上記のような教説になるようである。 ひるがえって妻は夫に対して 1.その人格を尊重しなければならない 2.夫を正しく愛さなければならない 3.夫の金銭を正しく管理し、感謝の気持ちや言葉を忘れてはならない 4.夫の仕事に口を出さず、そのことを深く敬うこと 5.夫の両親やご先祖を敬う などがある。 ・・・ちなみに「夫に対して」は筆者が加筆したものである。 悪しからず。 人間の愛の形は大きくざっくりと分けて「親子の愛」「男女の愛」。 子供を育て終わったか、元々子供なしの夫婦にとってはやはり配偶者を筆頭に血縁のない「パートナー」が普通の精神レベルの人には、必要なのであろう。 夫婦の愛の最終着地点はいったいどこにあるのであろうか? ただの「旅の道連れ」なのか・・・。 今では仲良く墓石の中で眠っているであろう筆者の両親を思うとき、あらためてこの問題については、自分が退化してしまったようで少しく申し訳ない気持ちになる。 ありがとうございました M田朋久 |