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■ 愛と自由 | 2016. 9.10 |
本来、自由という言葉は純粋に精神的なものを指すらしいけれど、現代では主として国家の体制とか政治経済とかによく使用される。 自由の哲学的な意味合いよりも人間社会の制度とか経済体制、言論、行動、旅行、移動、選択などに対して使われることが一般的なようだ。 即ち自由主義経済、統制経済というワケである。 過去、東西冷戦時代には東を社会主義陣営、西を自由主義陣営などと表現していた。 以前、自由と平等についてコラムを書いたことがあるが、あまりに自由すぎると平等が失われやすく平等であろうと目指すならば或る程度の管理統制が要るようである。 現代の日本の政治体制は半ば社会主義に近く、自由よりも規制の方が多いように思える。 あらゆる業種業態において規制がかかっていて我々の医療介護業界でもさまざまな煩雑な規制法律の網がかけられていて結構息苦しい。 要するにガチガチ厳格な管理社会というワケである。 ただし広い意味での選択の自由、移動、言論の自由はあるようで、それぞれの「世界」「業界」に入る前の状態、つまり少年少女、大学生くらいまでは規制や管理の網はかけられてないが一度そこを出て或る「業」を選択した途端さまざまな規制の網に絡められるだろう・・・と考えたほうが良いようだ。 規制緩和などと言いながら実際に各業界においては規制の数が増えているそうである。 さもありなんである。 政治家が何をもって「規制緩和」を自負しているかというと「自由化」という名の新たな規制で、これは国際標準(グローバル・スタンダード)と呼ばれて各業界団体からすると既得権の喪失を意味するもので結構オソロシイものと考えてよい。 行政からするとアメ(自由)とムチ(規制)を上手に使い分けているように思えるが、その為政者側の意図に反し結果としてどんどん不自由になっているのが現代の日本社会の実態ではないだろうか。 民間で起こるさまざまな事件や事故もあらたな規制・創造を促進させるようで、自然な状態で政治体制というものはどんどん加速度的に官僚化していつのまにかがんじがらめのガチガチの規制管理社会になってしまったというのが今の世の中の実相であろうか。 できるだけ個人的には「自由な気分」を味わいたいので精神の自由について色々本を読んだりして勉強しているが、肝腎なところが理解はできてもすぐに忘れてしまう。 要するに精神の自由というのは何ものにも捉われない、こだわらないという仏教思想に基づいた悟りの境地で、全き自由を得られるものだ・・・という理性は分かっていてもどうしても何かしらの「とらわれ」「こだわり」を持ちたくなるのが人間というものであろう。 そもそも人間全員がもしかして悟っちゃったら「物語」が何も生まれないであろう。 このどろどろして不自由極まりないものが人間社会の本態実相とあらためて遠景的に悟ればそれはそれで「精神の自由」を得たと総体的に考えることができまいか・・・。 さらに筆者の最も愛するこの自由というものは殆んど必ず「孤独」という代償を払わなければならない。 言い換えるとこだわり、とらわれを捨てるということは晴れ晴れとした自由を得ると同時にとんがった山の頂に一人で立つ・・・というくらいの孤独を感じるのではないかという恐怖を味わうけれども、実のところそれはただの幻想で逆に深い安心の境地と温かい愛の世界に入ることができるという説もある。 要はそのままでブレークスルーするのに少しだけ勇気がいるというだけなのではないかと思える。 何事もそうであると思えるが、なにがしかの「境地」を得るためには何らかの「恐怖」を乗り越えて「突破」しなければならないのだ・・・多分。・・・その勇気を問われているのが人生というものかも知れない。 社会的、外面的にもそうであるし、精神的、内面的にもこのようにとらえると、「自由」というものがさらに価値のあるものに思えてくる。 27年間の投獄を経験した南アフリカの初代黒人大統領ネルソンマンデラ。14年間の軟禁生活を強いられたカンボジアの実質上の国家元首アウンサンスーチー。流罪の西郷隆盛、幽閉の宮本武蔵などなど・・「不自由」な生活を送った偉人は数多い。 「愛の人」マザーテレサからしてカトリックの修道会という獄舎に生涯、居続けたともいえる。多くの結婚生活も考えてみれば自由を阻害する一大要因だ。 幸福の幸に字も、手枷の象形文字からきている。幸せというものも何らかの不自由を敢えて引き受けるということで生まれるのだ。 責任を執るの「執」という文字も囚人の膝まずいた姿の象形だそうだ。 物理的経済的な不自由が逆に精神の自由や愛を感得するのに有益であることは、哲学的に成熟した人間にとってはある種の常識なのかも知れない。 少なくとも物語的には愛が貧しさや不自由さや何らかの障害の中で育ちやすいように見える・・・小説や映画や自らの少ない経験からも、そのように思える。 ありがとうございました M田朋久 |