[戻る] |
■ ゆとり労働 | 2016. 9. 8 |
安部政権の近々の目玉のひとつに経済政策、即ち三本の矢@金融政策A財政政策B民間投資を喚起する成長戦略と同時に労働問題(非正規雇用、過重労働、残業超過)など労働者の福利を増進させる政策があって確かに国民向けに聞こえは良いが何かしら違和感を感じる。 祝祭日の増加、週休二日制など労働時間の短縮を謳いながら実のところ労働者人口は減少し高齢化しているのにこれ以上「働かなくて良い」と言われて国民の中には戸惑っている人も多いのではないか。 人間は油断していると楽な方に楽な方にと流れる。 これは誰でもそうである。 それをさらに推進するような政策で果たして国民のことを本当に思いやっているのかどうか不明である。 子供の教育でも「甘やかし」ほど悪いものはない。 子供の時は辛い方が大人に早くなろうとするであろうし、精神的にも自立した「大人」になるという目標を持とうとすることは子供にとっても好もしいものと思える。 現代の若者は「努力する」とか昔からすると「頑張る」とかがなくなったらしい。 これはもう社会が成熟したともいえるし衰退したとも表現できる。 意外なことに現状に「満足」しているし「あきらめ」ている若者たち。 満足はともかく向上心とか上昇志向の薄れた若い人々は結果的に当然ながら出世や昇進はしない。 これが個人として起こるのはそれぞれの人生であるので結構なコトであるが社会全体、とりわけ日本国の将来にとっては割と深刻な影響があるらしく、このまま行けば2050年には日本は先進国ではなくなるそうである。 ・・・ということは今の若者たちは将来年をとっても先進国としての豊かさや誇りを享受できないということになる。 これは国家的にも大変な損失であろうと思える。 このように考える筆者も古い人間であることを証明するようなものなのかも知れないが、自国が先進国であることと個人の幸福度は或る意味無関係であるとも思うが多くの今の日本人が昔でいうところの後進国、劣等国であることの悲哀をどれだけ知っているのであろうか。 裕福な家に生まれた人が貧しさを恐れないのはそれを知らないからかも知れない・・・という理屈で米国の富裕層の人々は子供に決して贅沢をさせないそうだ。 新聞配達をさせたり規律の厳しい寮生活をさせたりして自分たちの子供を厳しく鍛える。 そのような意味で国家があまり国民を甘やかすのは基本的にマズいのではないかと筆者は考えるのである。 特に労働については教育や納税と同じく国民の義務と憲法に謳ってあるし、昭和の後期に提唱された「ゆとり教育」なるものが失敗に終わったことが良い教訓にはなっていないようである。 また日本の場合、少子化対策というものをまだ、していないが為政者の方々は今から始めても遅くないと思っているのであろうか。 このような問題は数十年のスパンで考慮しなくてはならないと思うが日本の優秀な官僚の人々が良く考えて決められているのだろうけれど、政治家もあまりに官僚の知識情報を鵜呑みにせず自らの深考を精査によって意思決定をするべきと思える。 この度のゆとり労働(これは筆者の造語)という方針も考え方としては悪くないと思える。 ワーキングプアの問題もあるし「労働者の保護」は政府の責務ではあろう。 ・・・けれども本当に為政者がめざすべきは、国民の「働きがい」「夢のある労働環境」というものではないだろうか。 労働者の高齢化とか、減少という背景を考慮してもこの問題はあまり軽々に扱うべきではないと思える。 大昔から基本的に資源のない国、日本国の最大の資源は優れた教育としつけに裏打ちされた国民の能力と勤勉さなのであるから・・・。 人間の未来にとって労働というものの意味、価値、存在意義にダイナミックな変化が生じて、「働かなくてもいきていける」世の中になるかもしれない。それでも働くということが何かしらのゲームとか趣味とか贅沢みたいになれば良いと思うが、そういうレベルにいる人はそれだけで人生の成功者であるにちがいない。生きるために、生活のために、何らかの趣味遊びのための労働というのはちょっとした苦行かもしれない。 朗働という言葉を使って洗脳的に人を働かせようとする人が昔いたけれども、確かに悪いアイデアではない。労働を人生の苦行にするのは精神的な怠慢なのかもしれない・・・と疑って最低でも「修行」もっと進化して「勉強」もっと言うなら「趣味遊び」までもっていけたら「ゆとり労働」もイメージとして決して悪くはない・・・と思える。 それでも初めから「楽をしよう」と考えている人々にとっての「ゆとり労働」という考え方は個人にとっても組織や社会にとっても百害無益ではあるまいか・・・と筆者は考える。 ありがとうございました M田朋久 |