[戻る] |
■ 憂愁 | 2016. 8.31 |
本格的な秋のおとずれを告げるように大量の水気を帯びた渦風をたずさえて大型の迷走台風が北東日本列島を襲っている。 美貌の人がいくらかの憂いをその相貌にたたえて周囲を惑わすように、秋の台風もまたその強大なエネルギーを人間の心に同調させマイナスの振動を及ぼすようだ。 体調が落ちる。 所謂、夏バテはその時期に起こりやすいことは分かっているので早々に薬を服んで就寝するようにしているが、仕事の後のシャワーを浴びてベランダで秋の涼風に吹かれていると、どうしても人恋しくなり夜の店に電話をかけてしまう。 ひと寝入りした後の入浴でスッキリした肉体と精神はやはりどうしても人に向かうようだ。 秋なら尚更。 満たされない人恋しさは読書に向かい映画に向かい何らかの趣味に向かうものであろうけれど、疲れているといずれも面倒臭い。 モチロン「人間」が最も面倒くさいのであるが、タオルを首に巻いて裸で味わう心地良い秋の大気が幾らかなまめかしさの混じった欲望を喚起するようで、それが憂いなのか喜悦なのか分からなくなってくる。 いずれにしても季節の移るはざまに起こる心の乱れがそれほど悪いものではないのは確かなようだ。 今年は毎日同じ外出着。 ユニクロの白いレーヨンのハーフパンツに黒いフード付きパーカにサンダル。 Gショックの腕時計。 ジッパー付きの財布を手に持って夜遊び用の度つきサングラスをかけて出かけた・・・いつもの店に・・・。 同じ顔ぶれ、同じ歌、同じ会話、同じ飲み物・・・すべてがデジャブかと思えるほど「いつもの」だらけのいつもの店。 何だか認知症へまっしぐらみたいなパターンの繰り返しがまた老いた心を安心させるのかも知れない。 さまざまな懸念、心配、不安が心を去来する。 何でもかんでも心配の材料だ。 キリがないくらい胆底から噴流してくるそれらの心の汚れが一杯のビールで少しだけ和まされ静まるのが有難い。 最近は長くなった自らの髪を手ぐしで梳きながら「どうでもいいや」と開き直ってみても年数をかけて堆積した気鬱と材料はドンドン増量しているように思える。 いったい何時になったらこれらから脱け出て楽になるのだろう。 昔の60才定年という意味が少しだけ納得できる今年の秋の憂鬱である。 少しく喉のモヤモヤと軽い咳と鼻水・・・。 夏カゼの影響とも思える体調落下が瞬間的に書かしめている・・・いくらかの憂愁に汚染された心をとりとめもなく言葉にしてみた。 ありがとうございました M田朋久 |