コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ オリンピック 2016. 8.21

世界的な「スポーツの祭典」ということらしい。
5つの輪(リング)は5大陸を表現しているとのことだ。
即ちアジア・アフリカ・北米南米・ヨーロッパ・オセアニアだそうである。
とにかくグローバルなお祭りで、それは4年毎の開催でサッカーのワールドカップと同じである。

オリンピックの時しか観れないスポーツがいっぱいあって、アーチェリー・カヌー・テコンドー・フェンシング・レスリング・陸上各種競技・トランポリン・高飛び込み・水球・フィールドホッケー・ハンドボール・新体操などのほか、普段あまりTVで観れないバドミントン・卓球・柔道など比較的マイナーなスポーツも今はプロ化されている国もあり世界選手権が毎年行われたりしてBSの有料放送を契約すると時々鑑賞できたりする。
時にはややエロチックな男女の肉体を惜しげもなく披露されて妙な気分にさせられる競技、映像も多い。個人的には結構うれしいことである。

野球・テニス・サッカー・バスケットボール・ゴルフなどメジャーなスポーツ、特に日米にとってのそれほど頻繁に簡単に観れるわけではない・・・のでオリンピックの開催年はいろいろなスポーツを堪能できるという喜びもある。

とりわけ日本選手の活躍を見せられると感動感涙も並大抵ではない
選手たちの払う犠牲の大きさ、努力、奮励ぶりを思う時サラリとやってのけるように見える偉業もその背景に非日常的で想像を絶する毎日の練習を、その成果としてのメダルを思う時その重さについての深慮をどれだけの人ができるのであろうか。中には、それこそ人生のすべて、命がけとも言える精進に励んで来られた選手もおられるようだ。
そのメダリスト個人に関わっている人、身近な周囲の人々についてはその理解の範疇にあると思えるけれど一般の人には、その感動感激まではナカナカ理解はできまいと思える。

人間には「気楽に生きる権利」というものもあるので、それを享受できる一般人にとってまた努力というものを忌避する人々、嫌悪する人々、精神的に馴染まない人々にとってはその感激も軽々なものに違いない。
何しろ共感するというのは似たような、もしくは同じような努力体験をしない人には分からないものなのだ。

時々オリンピックを観て何の感興も示さない人々を観察していると「頑張る」とか「努力する」とか「勝利した」という体験を持っていないか持ちたくない人々のような気がする。
それはそれで特に問題はないと思えるが絶まぬ努力、練習、訓練とかについての同調性の薄さについて大きな個人差があるように思えて、特に体育会系の人で激しく鍛錬された人とか非常な努力で難関の試験に合格した人とか、はかり知れないほどの努力によって何らかの成功を勝ち得た人にしか、本当の意味でのオリンピックの勝利者への共感を得られないのではないかと思える。

いずれにしても世間から見た“勝利者”というとかなりの少数派であるし、選ばられし者たちというイメージを持っていて一般人、我々のような存在は思い切り「気楽に呑気に生きる」権利を行使してそれらの偉業を成し得た人々を英雄と崇め自分たちとは違う、と割り切って気楽に日常を過ごすことも悪いアイデアではないと思える。

何せ特別な才能を持ち特別な努力をした人だけが勝ち得るものなのだ。
特にオリンピックのメダリストたちは・・・。

開催中は多少ウザイと感じることもあった、この祭典も終わってみるとやはり心寂しい。それは秋の訪れをあらためて感じさせるもので、高校野球と殆ど同期して終わりを告げる。

宴の後の悲しみ・・・みたいなものが漂うオリンピックの開催年ではある。

クーベルタン男爵の言葉とされる「オリンピックは参加することに意義がある」。
女子5000Mの競技中。不測の「事故」に際し、レース結果を顧みず自然に見せた、いたわり合い助け合いの行為こそオリンピック精神の真髄かもしれない。もちろん激しい競争、戦いを前提にまれに起こる美談ではあるが、個人的には最も印象に残ったシーンである。

国威をかけたメダル獲得競争も、それなりに意義のあるものと思えるが・・・。何かしら大切なものを思い出させてくれる美しい出来事であった。

「大輪の大和心を 咲かせむと 南裏の大地に 躍る国人」

各受賞者、出場者の皆様本当におめでとうございます。
とても誇らしくうれしく思います。
お疲れさまでした。

ありがとうございました
M田朋久



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