[戻る] |
■ 心変わり | 2016. 8. 8 |
男女間の問題で最も大切なモノが「心」のソレだ。 男か女、一方の側が心を冷まして、イヤ冷えてしまったら相手はどうすることもできない。 何とかできると思っている人が多いのにはビックリさせられるが、こういうケースこそ「あきらめる」しか方法はないのだ。 逆に考えると男女共お互いに日頃から相手の心の動きを、敏感に察知し細やかな思いやりや心遣いをすべきであろうと思えるけれど、そういう行動のできない男女も結構おられるようだ。 「心」はコロコロ変わるものだ。 とてもうつろいやすく、はかなく、あやういものなのだ。 そのような前提に立ってあらためて男女の結びつきを結婚を含めて思う時、それは奇跡とも呼べるほど稀有な状態なのかも知れない。 その極めてあやうい結びつきに対して「絆」だとか「愛」だとか呼んだりするものだからコトはややこしい。 そういう男女、つまり深い絆で結ばれている相思相愛、相信相頼の関係もあるには違いないだろうが、それ程でもないのに片方が一方的にそういう深い絆みたいなものがお互いの間に存すると勘違いしている場合には或る意味悲劇的、喜劇的である。 筆者の場合、基本的にどんな関係性であれ「あきらめる」という覚悟を持ってあらゆる人間関係について臨んでいる・・つもりである。 そのような心境に至ったのは父親との比較的若い時期(25歳)の「別れ」を経験しているからと思えるし、また母とも50才の時に死に別れ、55才の時は或る特別の存在であった女性の死に立ち会って深い喪失の悲しみを体験したからであろう。32歳には離婚も経験した。あらためて振り返ってみると我が人生別れだらけだ・・。 そうでなくても、少年時代から今の今まで、辛い失恋経験は数知れない。それでも男の失恋など勲章と考えこそすれ、決して恥とは思ってはいない。 男女とも失恋の苦しみ悲しみを味わっていない人間など、信用信頼できないし、魅力的とも思えない。 そのような経験のない人とか、その喪失体験をうまく理性的に整理していないか精神的に納得していないか・・・であると相手の「心変わり」のような事態に遭遇した時に、混乱しうろたえパニックに陥り衝動的に行動してしまうのは理解はできるが、今や共感はできない。そのような考えや行動をしてしまうのは、相手の心を自分の意志や力やあり方でで何とかできると信じておられるからだと思える。 自分の意図で思うようにならないことが世の中には山のようにあるのだ。 その重要なひとつに「人の心」というものがある。 それをキチンと理性のポケットに入れておくことは自らの人生にとって結構有益であろうと思える。 すべからく世の中の争い事の多くがこの「心」についての思い違い、勘違いであるように思える。 環境、状況による人間の心の変化もまた激烈である。 45年前に行われたスタンフォード大学監獄実験(フィリップ・ジンバルドー・心理学者)というのがあって、学生を刑吏と囚人に分けて人間の心を観察すると見事なほど状況に適応して刑吏は残酷にサディスティックになり、囚人は卑屈にビクビクするようになり両方の被験者共に心に深い傷を負った事件があり悪魔の人体実験とまで称された悪名高いものであった。 また1954年に行われたオクラホマ大学研究チームの心理実験で殆ど同じ境遇の学生たちを2組に分けて対峙させるという実験を行ったところ、監獄実験と同じように見事に険悪に、対立し争うという構図ができてしまったらしい。 争い戦うこと、即ち戦争などあって当たり前のようなやりきれない人間の「心の特性」である。 どちらかと言うと人間の心は環境や状況で割と簡単に変化変容するものらしく、この2つの集団心理実験でもわかる通り理性的と思われた人間の心ですらコロコロ変わってしまうのであるから、ましていわんをや・・・である。 男と女の心など、春に咲いて散る桜の花びらほどにはかなく、実態も掴みどころもない・・・と良く心得ておくべきであろうと思える。 いかがであろうか。 人の心など決してアテにしてはいけないのだ。 自らの心ですらアテにならないのに・・・。 ありがとうございました M田朋久 |