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■ 寮生活 | 2016. 7.12 |
昭和41年の春、満12才の筆者は熊本市の今の東区にある、私立マリスト学園中学の寮に入ることになった。 4階建てのその建物の2階は1年生のフロアで、しきりのない広々とした空間に灰色の鉄パイプでできた二段ベッドが100台近く並べられ、これまた灰色の小さなロッカーを割り当てられると今思えば軍隊に入営させられた少年兵のような気分であったろうと想像される。身長155cm体重40kg。まだいたいけな子供である。 付き添ってきた母親が夕方に帰ってしまうと、いよいよ人生初の寮生活の始まり。一抹の淋しさ、不安が心をよぎったが人吉のあの自宅の騒乱から逃れられたという深い安堵感の方が勝ち、どこかしらスッキリ、晴れ晴れとした気分であった。 当然ながらホームシックというものも自覚したことがない。 ベッドでシクシク泣いている少年もいたが全く共感できなかった自分がいた。 生徒番号100番。 何かしら理由のない縁起の悪さを感じたが父親は憶えやすいと喜んだ。 確か4階建ての最上階は校長の住居であった。名前をブラザー・パトリック・フランシスといって、金髪赤ら顔で体格の良いアメリカ人。なぜか良く頭を撫でてもらった。色々な腕白を厳しく罰しながら・・・。 1階は教会のような礼拝堂、浴室かなんかだったと思うがよく憶えていない。 食堂は隣の小ア寮の1階であった。 西側のドアを開けると正面に広々とした厨房が見え、その他の空間が食堂で長テーブルと丸椅子が並べられ、パンとか牛乳やお菓子の買える小さな売店があった。 不思議なことにこの売店のオバちゃんの顔は今でもありありと記憶している。 それは担任の教師と同じレベルの鮮明さだ。 朝、音楽(当時の流行歌)で起こされ共同の洗面所で歯を磨いて食堂に行き、朝食を摂って学校へ行く。 当時は7時間授業で朝・夕に課外があったので実質9時間授業。 モチロン土曜も午前中は学校である。 部活はバスケットボール。 体育館がなく校庭の隅のテニスコートの横に一面だけ凸凹地面のバスケットコートがあって、そこで1時間から1時間半くらい汗を流し、それから約30分以内に入浴し食事をし着替えて勉強部屋で勉強をした。 それは午後7時から12時まで。 9時から9時半までの30分の休憩をはさみ殆ど眠ることもできず机に向かわなければならない。 何故なら寮監が、講堂のように、広々とした勉強部屋を巡回して眠っていると起こされるからである。 こんな調子であるから学業成績は自然に上がった。 何せ試験の順位が学校の便所の横の渡り廊下にズラーッと50位まで毎回貼り出されるので嫌が応にも負けず嫌いと、競争心が刺激される。 他にすることもないし、ひたすら朝から晩まで読書か勉強である。 日曜日も午前中は勉強時間。 ようやくそれらから解放されるのは正午から午後6時まで。 束の間の自由時間だ。 時々一人で路面電車に乗って映画を観に行った。 ちなみに土曜日の午後は部活である。 スティーブ・マックイーンの「ブリット」という映画とオードリー・ヘップバーンの「おしゃれ泥棒」が印象に残っている。 寮生活で「マスをかく」という言葉を知ったがそれが何を意味するのか分からなかった。中学2年の夏休みにエロ本を見ていたらペニスが勃起してしごいていたら初めて射精というものをした。 そのめくるめく深い快感は全身が痺れるほどであったが、同時に生じた底知れぬ罪悪感の為に、また寮生活であった為に、幸か不幸かそれ程「ソレ」に溺れたりはしなかった。 「勉強をする」為の環境としては、寮生活は少なくとも筆者にとって最適であったようで高校進学時には5クラスの中で優秀クラスに入れられた。 中高一貫教育の為に受験勉強はしなかったが、毎日が前記したように勉強々々の日々であったのが幸いしてそれ(勉強)を苦にしなくなったのは有り難い。 偏差値は東大入学のレベルになったが高2の時に担任の数学教師に注意されて部活をやめてから成績が落ちだした。 肉体的に発散するものがなくなり当時夢中だったバスケを取り上げられ少しずつ非行少年への道にシフトしていった。 思春期の肉体に爆発的な性のエネルギーが溜まる。その毒素のためか、悪友にそそのかされて高3の時には寮を出て下宿生活を始めた。タバコを喫い酒を飲み麻雀など、大人の遊び三昧。 勉強というものを一切しなくなった。 当然ながら成績は急降下。 ついでにオートバイの無免許運転で警察に捕まり、派出所の柔道場で警察官に投げ飛ばされながらも後ろに乗せていた少女の名前を明かさなかったので、学校に通報され前歴(バイク窃盗、これは実行しなくてもソレを見ていたら共犯ということらしくレッキとした犯罪者であったらしい)を学校に連絡された。 そもそもバイクを盗む技術などないし運転だって知れたものだ。 つくづく友人は選ばなければならない・・・と思った。 件の少年は少年院に送られ自分は保護観察処分となった。 まさに「朱に交われば赤くなる」だ。 そのまま寮生活つづけていれば・・・。 バスケをつづけていれば・・・。 人生に「もしも」はないけれど、自らの人生を振り返った時に思い返すのはこの寮生活の有難さと苦しさだ。 一人娘も共学になった我が母校で寮生活を送ったが高校になって拒食症になり、激ヤセの肉体を、不気味がられて寮を追い出されてしまった。 たまたま熊本市内に医院を持っていたのでそこに入院させたらみるみる治ってしまった。 2番目の息子も中学から長崎の星雲中学という名だたる進学校で寮生活を始めたが、そこには息子の得意な「水泳部」がなく2年生でドロップアウトした。 先述した「事件」のために、卒業式を終えた後メデタク退学というより、「卒業取り消し」なり合格の決まっていた北里大学医学部の入学を果たすことができず、鹿児島日大高校に3年生として再入学することになった。 高校は計4年行ったことになる。 そこで教訓。寮生活はスポーツ活動とセットでないと少年はモタナイ。勉強は集団的、強制的でないと余程優秀でない普通の未熟な少年にはできない。反抗期が遅れてやって来るので、用心が必要。マザコンががひどくなる可能性もある。 今となっては、かなり禁欲的なこの寮生活も結構懐かしい思い出である。テレビもラジオもないので社会から隔絶されていて寮生活の5年間の音楽や社会情報が欠落していて地元の同級生と話しや感性が合わない・・・感じる。 追記:寮生活の悩みの一つに「夜尿症」があった。殆ど毎日のようにそれで失敗し、布団はいつも湿って臭かった。恥ずかしくて誰にも言えなっかったし、寝るときは濡れていないところを見つけて体を縮めて何とかしのいだ。日曜日にみんなのように布団を干すこともできず自殺を考えたくらい悩んだ。 それと1学年上の先輩の執拗な暴力。隙をみては、筆者に襲い掛かる・・・。今思えばよく耐え忍んだと思う。 たまの帰省が特に嬉しいという訳ではなく、路面電車で熊本駅まで40分。国鉄肥薩線で故郷まで1時間40分。暗い顔をした夜尿症の少年がひとり鉄路に揺られている姿を想像してみると、我ながら結構鍛われたなあ・・・と感慨深い。今だからこそ言える真実で当時は本当にすべてにおいて毎日必死であった。 ありがとうございました M田朋久 |