[戻る] |
■ 所詮他人事 | 2016. 5.20 |
熊本地震から丁度1ヶ月経った今も余震がつづいている。 被災の程度で人々の対応もさまざまであるけれど、道路も鉄路も通り、電気もガスも水道もそれぞれの役割を果たしつつあるようだ。 これはもうテレビのニュース報道で知るという程度であるけれども、現地に行った人や知人の“話し”からの想像であるので何かしら胸の底に少しく罪悪感を感じさせるほど隣地の我が町・人吉市はノンビリとしている。 中には早々に炊き出しとか物資搬送とかのボランティア活動をされた人々もおられて大したものである。 芸能人や著名人のソレとは異なり一般人のそれらの活動には売名の匂いがせず爽やかに見える。 有名人とは不便なものだ。 何をしてもあーだこーだと叩かれる。 中途半端な善行ならしない方が良いのかも知れないと思えるし、その人物の力量に応じてしないとケチに思えるし、また過大すぎると本人も困るであろう。 実のところ過大すぎるくらいしないと人々はこういう場合、満足しないものなのだ。 全くもって世間というものは温かくもあり残酷でもある。 表題に戻るが筆者の10才年上の叔父は子供時代に、即ち彼の青年時代に幼い筆者に向かって色々な講釈をたれてくれたのであるが、その中に「所詮他人事」というのがある。 医者も患者さんのことを一生懸命親身になって診てあげたとしても最終的には「所詮他人事」とバッサリ切り捨て、この慰めともからかいとも取れる、いくらか不謹慎に響く言葉も結果的には周囲に奇妙な安堵感をもたらしてくれたものだ。 「往診は早く行かないとマズイぞ、じゃないと患者が治ってしまう云々」 「私は健康の為に病院通いをやめました」 「健康は生命より大事」 「どんな人の死もそれは寿命」 とか色々な小咄も含めて皮肉やユーモアの混じった言動の多い人であったが72才の今も元気そのものであるが、その講釈の数はずい分と減ってしまった。 この言葉を思い出す端緒になった本が「嫌われる勇気」というもので、岸見某という人物ともう一人著者がいてヤヤコシイがベストセラー第1位だそうである。 そのエッセンスはアドラー心理学からのものらしいけれど、人間関係とか幸福とかについて良いヒントが満載されていてナカナカの良書である。 個人的には特にアドラー心理学の信奉者ではないけれど、心に響くアイデアもいくらかあったりして少しく披露してみたい。 課題の分離。 これが良好で健全な人間関係の入り口であるらしい。 誰の問題か? この疑問を解決しておくことは結構大事である。 特に親子関係、家族関係でこの問題の「所有」の混乱が生じやすいようだ。 子供の結婚は子供の問題であり親の問題ではない。 親の不祥事は子の不祥事ではない。 これらを混同視しやすい世間の目やマスコミの目を鑑みても正しく把握しておくことは良好な人間関係と心の安寧の為に極めて有益なものであろうと思える。 「熊本の地震は自分の問題ではない」とは本当は言い切れない。 実のところ社会経済問題として繋がっているので、決して他人事ではないけれどもやはり究極的には他人事なのである。 これは先述した書物でもハッキリと表現してあって「所詮他人事」と明言できるのは前提として、人はみな深いところで繋がっていてそれを「共同体感覚」として表現しているけれども、平たく直言してしまえば「所詮他人事」と「共同体感覚」はひとつのもので、この一見相矛盾する意識感覚を微妙にバランスさせながら生きているのが人間という生き物であると思える。 子供の結婚は他人事ではない。 同じ地域の地震やその他諸々の災害も決して他人事ではないけれども、入り口はやはり課題の分離を経て、しかるのちに進化させたカタチの「共同体感覚」が理想であると思える。 ありがとうございました M田朋久 |