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■ 小説 | 2016. 4. 1 |
滅多に読まない小説にハマッている。 横山秀夫。 警察小説の雄。 その内部のリアリティーにおいて右に出る作家はいない。 文庫本を左手に毎日が小説の主人公とパラレルに過ぎていく。 一日の物語が多少の時間差があるものの同時進行している。 不思議な感覚。 横山秀夫の筆致はテンポも文体も表現もストーリーも人間描写もすべて心地良い。 まさに男の世界、組織の男たちを描いて秀逸である。 一行も一文も読み逸らさない腕がある。 流石だ。 一時に物書きなら誰もが憧れる小説家への夢を見事に打ち砕いてくれる傑作メーカーだ。 それが心地良い。 本と言えば日本では小説。 キリスト教徒にとっては聖書。 イスラム教徒にとってはコーラン。 ユダヤ教徒にはタルムード。 中国人にとっては歴史書。 世界最古の文字小説と言えば紫式部の源氏物語だそうである。 もっとたどれば手紙文学がその源であるらしい。 「文」と言えば手紙というのが普通の日本人の感性。 同じく史(フミ)と呼称される歴史物語もまた中国人のソレなのであるらしい。 いずれにしても人間の紡ぎ出す物語を小説と呼ぶのには少々違和感があるものの優れた作品を手にした時の喜び、楽しみ、期待は退屈な人生生活に確かな彩りを与える。 ソレは映画やテレビの及ぶべくもない高いレベルの喜びである。 一日中片時も本から手を離さない。 右手や左手に持ち替え、座り、立ち、歩き、運転中ですら信号待ちに手を伸ばす。 その魅力を自らに問うた時に即答できる解答はない。 少なくとも小説の主人公はその苦悩や息づかいで読者の分身となり、知人・友人・親友や同僚、血族や親となりその頭脳にイヤ全身に乗り移る。 没入感が映画の比ではない。 こんな小説家に才も勉もない者どもが敵うワケがないとつくづく思える。 優れた芸術家やアスリート、そして小説家は安っぽいタレントや俳優をもはるかにしのぐ・・・と思える。 現代に世相に反し、かつてロシアの文豪トルストイが世界の大スターであった頃、人々の心や耳目は映像よりも文字や文章で次々と紡ぎ出される物語に集中していたのだ。 そうして時は移り、いつしか人々は、小説と言うものを読まなくなった筆者も含めて・・・。 それを一気に小説の世界に引き戻してくれた横山秀夫氏に感謝したい。 ありがとうございました M田朋久 |