[戻る] |
■ 一日一生 | 2016. 3.18 |
平成21年に101才の長寿で亡くなった元龍源寺住職・松原泰道師の著書に「一日一生」というのがあって昔読んだことがある。 氏の著書は「般若心経入門」というのが売れたらしく、筆者も学生時代に読んで少し仏教にハマッたことがある。 昔のホテルには聖書と一緒に仏教経典が置いてあって、読み物として結構面白くて時間つぶしに拾い読みしているとかなり為になる。 ・・・で、仏教入門書として個人的に最適であったのはやはり仏教経典で、次は松原氏の般若心経入門ではないかと考えている。 仏教というと中国でも古来から哲学的な側面があって、宗教というよりは知識人の教養としての存在だったそうで、深く研究すると結構難解である。 特に禅宗の場合、大きく臨済宗と曹洞宗に分かれるのであるが、臨済禅だと「考案」を通じて禅師が弟子に考えさせて悟りを開かせる・・・という手法を採っている。 一方、曹洞宗、別名・道元禅(道元が開いた)はただ座禅をする。 何も考えない只管打座で悟りを得るという方法を用いる。 考案というと一休さんの「頓知」を想起させるがそれこそ臨済宗の一派のレッキとした禅僧・一休宗純の面目躍如といったところである。 禅問答というのはとても面白くて、物事の捉え方に無限の拡がりを感じる一方で何者にもとらわれない、こだわらない広々とした思考を突き詰めると無思考の状態と同じになるようで、このあたりの仏教、特に禅仏教の考え方は極めて興味深い。 先述した般若心経にも無とか不とかの表現が数多く出てくるが、物事の心理・哲理というものが言葉では表現できないので「それでもない」「これでもない」「あれでもない」という風に否定形で著さざるを得ないということであるらしい。 おいしい料理とか素晴らしい性的快楽とかを万巻の書を用いても言葉で表現することはできないので、それは食べてみる、ヤッてみることでしか味わえないというのと似ている。 つまり言葉というものが物事のありさまを表だけ指し示すことはできても「そのもの」ではないということは周知のことであるが、人間の心が忘れがちな真理ではあるようだ。 前置きが物凄く長くなったが一日を一生と考えて活きて来られて101才までというのは生き方として長寿を全うするのに真に妙なる方法という風に見ることができる。 少なくとも実践者の松原泰道翁はそのような大往生を遂げられたようである。 大昔から自己啓発書の多くに今日という一日と昨日と明日には強固な鉄扉を立てよという箴言があって、明日を思い煩うな、昨日を悔やむな・・・といって今日を大事に、今を大事に「今ここでありのまま」みたいな意味であろうか。 「本日ただ今」なんていう表現はいかにも仏教くさい。 最近はこの言葉を灯りに毎日を過ごしているが「明日できることは今日するな」。 これは大ファンであるシンガーソングライターの来生たかおの言である。 一方で「今日できる楽しみは明日に伸ばすな」みたいな言葉も筆者自身の中に持っている。 或る意味で人生を楽しむ為に貪欲な感じでいくらかお下品ではあるけれど、自分自身に時々言い聞かせて自らの放蕩、尽蕩の言い訳にしている。 60才を越えて楽しみを先に取っておける年ではないのだ。 いつ死ぬか分からないのだからできるときにしたいことはやっておけ、てな感じで少しく頑張って遊んでいる。 仕事も遊びと感じるくらい面白いのでこちらも頑張っているという感覚だ。 そもそも貪欲の貪という字も今の下に貝。 貝はお金のことであるから、今お金を使わなくていつ使う。 「今でしょ」。 金持ちの親戚が数人いるのであるけれど、60過ぎ80過ぎになって今でもどちらかというとやや吝嗇的、禁欲的に見えるのは気のせいかもしれないけれど、一日一生と考えれば何よりも時間の使い方と同時にお金の使い方に大きな変化が現れる・・・と思える。 明日死んでしまう・・・と思って一日を生きているというのは良きこと、善なることであるらしい。 ありがとうございました M田朋久 |