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■ ナルシストのすすめ | 2016. 2.21 |
若いころに読んだ男性雑誌に「失恋したら服を買え」と言うコピーがあって、何となく実行してみたら幾分か良い気分になるので不思議に思っていた。 若い頃にはお金を持っていないし、服とか簡単に買えないし、今よりもはるかに衣類が相対的に高かった時代であったので、そうそう実践できる手法ではないけれど心理的手応えは確かにあるようであった。 自分を飾るというのは男女共性欲のなせる行動らしく、広く知られているように生物のオスは大きくて美しい姿をメスに見せることによって有利な生殖相手を勝ち獲ろうとするようである。 ライオンの鬣、孔雀の羽などを筆頭に数限りなく自然界で見られる生態である。 察するところ自分を飾る男は今流行りの筋肉トレーニングを含めムキムキの肉体美や見せ掛けの伊達男、チョイ悪オヤジ・・・とファッションの全てがゲイの人々も含めてすべからくそのような動機に根ざしていると思うと何となくゲンナリしてくる。 筆者とて全く例外ではなくクルマから髪型、靴にいたるまで結構気を遣っている。 何となくイジマシイ話だ。 自分を飾らない男、素朴な男こそ男らしい男と考えていたがあまりにも男男しているのも女性に人気が無いそうで、それは粗野で乱暴な印象を与えるであろうし、今の社会的欲求を満たす「優しい男」にも合致しないので、現代の男としてアウトだそうである。 ナカナカムツカシイ問題である。 男女共この女性性、男性性のバランスというか配分と言うものが時代によって変遷(?)しているようで、或る程度男も流行を追っていかないといかにもダサい男に成り下がってしまう・・・ということもあるようである。 要はセンスの問題であるけれど、あまりにも流行を追い過ぎてチャライというか軽薄な感じもこれまたアウトであるようである。 要は「センス」なんであるけれど、このセンスを磨くというのも容易ならざる技であって、生半可な努力では手に入らないことも多いらしい。 失敗に失敗を重ねる・・・というのが元々センスの無い人々の磨き方と思えるが簡単なファッションガイド本なんていうのも参考にならないわけではないけれど、かなり読み込んでもセンスの良い人はセンスが良く、ダサい人は何をやってもダサい・・・という印象を持っている。 残念なことである。 友人の一人である特別ダサい男が急にハイセンスでダンディーになったことがあったが、それは結婚相手がとてもセンスの良い人で、その女性の言ったとおりのファッションをしていたからであって、離婚した今は再び見事なまでにダサい男に成り下がっておられた。 有名私立大学を出たとても経営手腕もある好人物であるので或る意味同情を禁じえないが、これは全く他人事ではない・・・と思える。 ちなみに先述した友人は3回も結婚したが、それらの全ての女性に逃げられてしまったらしい。 これ程作用にファッションセンスというものが人生生活全般にわたって意外なほど快適に生きる為の一大要素と思えるが、日本人の場合特に男の癖にオシャレにばかり気を遣っていると「見かけだおし」とか「中身がない」とか「カッコばかり」とかの表現でバカにする傾向もあったりして本当に考えれば考えるほどバカらしい。 やはり何事も「さりげなく」というのが最良最高のファッションセンスではないかと思えるがいかがであろうか。 見かけなどどうでも良いと思っていたけれども女性の場合、やはりファッションについてはその魅力の一部であり、時にはファッションセンスが良いことで相手の女性を好きになったりしたこともあるし結構な容姿であるのにあまりにも着ている服がダサくて好きでなくなったこともあったりするので、やはり男女共ファッションセンスというのは大事なのである。 前置きが長くなったが純粋な自己愛と異なりナルシストというのはどうも聞こえが悪いようだが、男女共、特に男性がクールに多少ナルシスチックであるのは結構イケてると思える。 自分の外見が好き(ナルシスト)という心理的状態というのが傍から見て自惚れとか傲慢とかでなければそれはそれで可愛いものだと考えている。 あくまでそれは自己満足であるので、たとえその人物がチビ・デブ・ハゲなど3拍子そろった不細工であってもキチンと完璧なナルシストになれるのである。 先述した3拍子そろった俳優さんでダニー・デビートというアメリカの男性がいるのだけれども筆者の目にはこの方が何ともカッコイイのである。 特にレインメーカーという映画でとてもカッコイイとされるミッキー・ロークとか素朴なハーバード出のお坊ちゃまマット・デイモンなどと共演していて、一番カッコ良かったのがこのデビートさんなのである。 時々背が高く髪もフサフサで痩身でも物凄くダサいと感じる人がおられるけれど、いったいこの差は何かと考えてみるに外見的な自信か内面的な自信の涵養とか工夫とかを阻害している・・・というより努力していないので内面的な深味に乏しくなってしまうのではないか。 一見矛盾した考え方であるけれども、外見に自信を持つ為に内面的な自信と外見への自信創造への努力・・・みたいなものが必要であろうと思えるのだ。 どんなに外見に問題があってもこれらの努力を忘れてはならないと思える。 これらの意味で筆者はまごうことなきナルシストであって、自らのコンプレックスとその克服の為の努力とあいまって非常に脆弱な基礎しか持たないあやういナルシストで、それらの自信はいつも風に舞う粉雪のように散り散りとしてあやうい。 「根拠のない自信」「根拠のある自信のなさ」 それらが生み出す独特の或る種の苦しみのハーモニーがその人間のナルシスト的な魅力になるのではないかと思える。 人間の苦しみの中でも「自己嫌悪」とか「罪悪感」とか「劣等感」は結構厄介で、それに比べて「自己陶酔」とか「優越感」「自己正当化」とかのいくらかナルシスト的な感覚や考え方は、それがごくごく密やかで、個人的で外に対して何も発信していなければ、それほど滑稽でもなく、世間をまっとうに生きていくのに、とりあえず便利な心理的技法といえるのではないか・・・と考えている。いかがであろう。 ありがとうございました M田朋久 |