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■ 幸福の条件 | 2016. 2. 2 |
この分野でも色々な研究があるようで、たとえば精神科医の斎藤環氏の著作によれば幸福の条件としての要素は ・主観的健康 ・趣味 ・肯定的感情 ・おだやかな精神状態 ・打ち込める仕事を持っていること ・結婚していること ・スピリチュアリティー、宗教観 ・社会的地位 それほど幸福とは関係のない要素として ・客観的健康 ・富 ・性別 ・年令 ・子供がいる ・魅力的な容姿 ・温暖な地域への転居 いくらかは反論もあるが、何となく腑に落ちるものもある。 幸福“感”というものが所謂脳の快楽と違法な薬物などで個人の頭脳で起こる強い快感を指して幸福(しあわせ)と考えている方も多い。 世間のおおかたの予想に反し、わずか14歳の若さでオリンピックで金メダルを取った岩崎恭子という女性が勝利インタビューに答えて「今までで一番しあわせです」などと述べられていて、それなりに多くの人を感動させた言葉であるが、その言葉に対して何かしらの違和感や疑問を抱いた人は多くはないと思える。 即ち殆んど何の抵抗もなく「そんなものだろう」という風に捉えていた方が大多数であったろうと思える。 ・・・ところで今現在、件の岩崎さんが幸福かというと現在の彼女の状態・状況を知らないのでどうだか分からないが、多分「幸福である」と言い切れる人は誰もいないと思う。 つまり、その時(金メダルを取った時)には物凄い幸福感を味わったと想像できるけれども、このような「幸福」は長続きしない。 ここで前記の条件を見てみたいが、色々と異論はあるけれども幸福の条件をあらためて吟味してみる。たとえば身近な例で結婚を考えてみると、良好な関係を生理的限界を抜きにして一定の努力を重ねて愛を深めているという状態というのは持続的幸福を勝ち得るチャンスを持っていると思えるけれど、これはただの幻想であろうか。 これは「打ち込める仕事を持っている」というのと同様に自分以外の他者との関係性を規定していて、社会的地位も同様にある程度の利他性とか隣人愛とかの存在をうかがわせしめる考えである。 大昔より幸福≒愛みたいな若干キレイゴト的に聞こえる論があるけれども、愛なしに持続的な幸福感というものを味わえないと考えている。 もう一度前記した条件を多少強引であるが愛を基準に分解して構造化してみる。 幸福の条件とは主観的・能動的に「愛する」「愛している」という脳の状態と仮定すると主観的健康とは自分の感覚とか理性を、たとえばありがたいなあと感謝できること(いかなる状態であれ・・・)。 自分のやっていることを愛している(趣味)、自分自身の理性によりコントロールされたプラスの感情、たとえば嬉しさ、楽しさ、感謝などの感情(肯定的感情)。 おだやかな精神状態というのはやはりある程度のスピリチュアリティー、哲学性、つまり「知を愛する」ということではないだろうか。 一方それほど強くない幸福の条件を眺めていると、これまた強引に分析すると「愛されている」状態が、少なくとも客観的というか他動的というか他者の評価に準拠していると思える。 客観的健康というものがどういうものか不明であるが、たとえば健診での結果とか身体の老化とか障害とかはいずれも他者評価、うがって考えれば「愛されたい」という欲求を満たす為の条件が富であり性別であり容姿であり年令であり、また自分だけの快楽の追求であるように思える。 少し書き切れない面も多々あるが、まとめて述べると幸福の条件、それも持続的な条件とは 「精神的に自他を能動的・主観的に愛することであり、その個人がそのような立場や環境、社会的ポジションを持っていること」 ではないかと思える。 いかがであろうか。 かなり古い映画で 「幸福の条件」というのがロバートレッドフォード、デミムーア主演であって、富と幸福について考えさせられる内容であった。これを観たときには、大金持ちのロバートさんの紺のダブルのスーツばかりに目が行ってあまり内容は印象に残っていないしDVDも出ていない。つまり面白くなかったと思えるが、多くの人があまり考えていない、考えたくないテーマなのである・・・多分・・・。 いずれにしても、人は皆、自然な状態で愛したい、愛されたい生き物あり、それらによって生かされたい存在でもあるのだ。そうしてやはり誠に陳腐な結論になるが、愛することが幸福で、愛されることはそれほどでもない・・・という風に前記した「条件」を読み解くことができる。 ありがとうございました M田朋久 |