コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ クスリ2007. 7.12

昔、青年会議所という団体に所属していたことがあって、何をマチガッタのかアフリカのソマリアという
その当時は米軍が活動していて内乱中の、とても貧しい国にボランティアとして行かされた。
目的は援助物資の「配達」である。

別に自分が医者だったからというワケではなく、タマタマ「国境なき奉仕団」なる部会があって
これまたタマタマ副委員長とうい身分を授かったが為に引くに引けず、
内心は怖くて仕方なかったけれど、まるで「踏み絵」を踏まされたような気分で
地元では壮行会ならぬ「送別会」まで開いてくれて、1万円のせん別を有難く賜り、
泣く泣く地球のほぼ裏側の「僻地」に行くハメになった。
イヤイヤパスポートを取り、例の、下にゴロゴロのついた、重くてバカデカくカッコウの悪い旅行カバンを買い「自分は何という不運な男だろう」と悲嘆にくれながら、個人的には初めての海外旅行ではあったけれども、少しも気分の晴れることのない憂鬱な旅であった。

トータルで30〜40時間は飛行機に乗っていた。
ドバイという空港では飛行機の中で3時間も出発を待たされたりもした。
パリを経由し、フランス領ジプチという、紅海に面した、少しロマンチックな雰囲気の港町から、更に
聞いたこともない航空会社の田舎の乗り合いバスのようなオンボロプロペラ機に、ニワトリやら、トーマイ袋やら、目と歯と爪以外は真黒な人々と一緒に(モチロン仲間の日本人はいたけれど)乗せられて到着したのが「ソマリア」という名の砂漠と灼熱地獄、世界でも有数の「最貧国」であった。
空港のビルは銃弾のあとが生々しく、ガラスなどは全部割れていて、滑走路の脇には、これまた銃弾の無数に打ち込まれたソ連製のミグ専用機が二機打ち捨てられていた。

検問にあって、パスポートを一時、機関銃を持った軍人たちに取り上げられた時には
「もう自分はこれでおしまいか」と家族に遺言を書くつもりで手帳に何やら書きつけたりもした。

ゴツゴツした砂漠の先の小さな窪地に、ゴミ溜めがあり、そこをめざして日本製の古いマイクロバスに乗り、到着してみると、それはゴミ溜めなどではなく、れっきとした民家の集落であった。スラム街のバラック群。
その集落の中で普通に建っている小さな「家」があって、そこが私達の宿泊地となる大使公邸であった。
テレビも電話もラジオもなかったけれど、シャワーがあり、驚くべきことに水洗便所はついていた。

病院なる場所は、田舎の朽ちかけた小学校の校舎のようであった。
中庭には注射器やら薬包やらゴミの山。
掃除するとかゴミを捨てて片付けるという習慣はこの国には無いらしい。

私が医者であると聞いて、何人かの地元の人々が相談に来たけれど、通訳に英語で聞いてみると頭が痛くて子どもが泣いているらしい。
それで自分の為の鎮痛剤を渡してあげると1時間くらいして、その親が私に拝むような仕草で微笑んでいるので、どうも子どもの頭痛が治ったらしいことが分かった。
それを聞いて地元の人々が色々な訴えを持ってやってくるので、次々に多少いい加減に、鎮痛剤やら、精神安定剤やら、抗生物質やら、胃のくすりやら、腸のくすりやらを片っ端から出しまくっていると、まるで自分が「シュバイツァー」かなんかのような偉人になったようで良い気分であった。

帰りの飛行機もまたクスリの有難さを思い知った。
自分だけ睡眠薬で飛行機の長い長い密室の旅をスヤスヤと快適に眠って過ごしていると
仲間の日本人達が次々とやってきて睡眠薬を分けてくれと言う。
仕方なく分けてあげるとみんな嬉しそうにニッコリ笑って私の前で手刀を切って喜んでいた。

最後の一人に「もう無い」というと心からガッカリしたような感ったように、眉間にシワを寄せて
俺を「ウソだろう」という風に睨んだ。
その怖い顔は今でもありありと思い出す。スミマセン。

というわけで、今の日本ではあり得ないけれど、オクスリはとても有難いものだと改めて思い知ったワケであります。
私は内科医ですから、医者としてクスリがないと手錠をつけられたボクサーのようなものだ。
病気に対して有効なパンチを繰り出せない。

クスリを飲むことに抵抗を感じている患者さんには時々この話をする。

長い前置き、読んで下さりありがとうございました。

【追記】
夜は家に明かりも無く、ウツロな気分で日光の差し込む窓から、美しく輝く星空ばかり眺めて過ごし
朝は地元の子ども達とサッカーをして遊んだ。
今でもその光景はコバルトブルーの紅海の美しさと共に目に灼きついている。

たくま癒やしの杜クリニック
浜田朋久


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