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■ 恐れは愛を駆逐する | 2015.12.31 |
これは表題そのものが結論である。 結構人生の指針となる言葉だと自負している。 まず男女関係。 男女共「相手を恐れさせると愛を失う」と強く自覚することが肝要である。 ところが実際は相手に対する好意・好感、さらには情念・情愛・情熱・愛欲など深まれば深まるほど結果的に相手を恐れさせてしまうということがよくある。 結論を先に述べると相手との交際を良好で順調なものにしたければ、逆にできるだけ相手に対してクールであることが望ましい。 つまり常に自らの情熱を冷ましておく必要があるということだ。 人間の目の中に光る情欲の炎は時として強い憎悪や怒りのそれよりも相手を恐れさせることがある。 人間の情欲も或る種の獣じみた攻撃性を秘めていて、特に若い人達でそれらの欲求の強い人々の場合、結果的に全く異性にモテないということがしばしば起こってしまう。 年輩の男女が性的な方面で人気があったりするのはそのあたりの枯れた感じとか性的能力や欲求の減弱によって生じた「ゆとり」みたいなものにちがいない。 もちろん枯れ果ててしまっては全くもって論外であるけれども・・・。 人間の恐れの最大のものは一般的に死である。 死は孤独への恐怖とも言える。 人間の世界から離れるということは愛する人々との別れを暗示するように見えるからであるが、最近のさまざまな研究によれば「そういうこと」はないらしい。 即ち霊魂というものは死によって深いやすらぎと愛の世界に導かれるという考え方もあって、死への恐怖に対峙している人々にとって或る種の強い安心感を与えているように思える。 以前メディアで話題になっていたストーカー殺人などで擦り込まれた主に男性の性欲への恐れは多くの女性をして男女の交際についての慎重さ、敬遠、忌避などの行動になってあらわれているようだ。 人間の恐れの中で次にくるのは「自由を奪われる」ことへの恐怖と思える。 現代の人間社会において刑罰の主たるものは極刑である死刑と次にくる終身刑である。 このことは人間の自由の喪失の恐れか生命の喪失への恐れの次に存するという事実に着目すると、人間関係における相手への束縛(自由を奪う)がいかに相手を恐れさせるか一考しても良いと思える。 現代の先進国での刑罰で、たとえば鞭打ちの計、手足の切断とか局部の離切とか百叩きとかなどの肉体への「痛み」を与えられるものは存在しないので、死への恐れ、自由喪失の恐れでもって社会を統制しようというのが国家的な刑罰の方法であるので、これは世界中普遍的なものであると考えられる。 ・・・ということは相手の自由を奪わないという配慮が相手への安心感の第一と思えるのに一般の男女の付き合いでも家庭でも職場でもこのことが意外にも忘れられているように思える。 このことは国家間にも必ずあって支配国、被支配国の関係、つまり特定の国についての隷属・服従というのは強い屈辱であると同時に自治(自分たちで自由に国を治める)の喪失の恐怖であるのだ。 これは日中韓の国際関係における「恐れ」の中心が死への恐れと同時に自由を奪われることへの恐れに基づいて実際に歴史上、中国・韓国はそれらの苦痛と屈辱を味わったのであるから日本に対する恐れの感情の払拭の為に敵対する、威嚇する、怒るなどの代替感情を使って相手国を恐れさせるということをやってお互いに負のスパイラル、即ち恐れ合って愛し合う(仲良くする)ことを忘れてしまっている。 個人でも国家でも仲良くするのに越したことはない。 ひょっとしたら人間の善の最高のものかも知れない。 世界は一見恐れに満ち満ちているかに見える。 けれどもよくよく深考すると素晴らしい愛の世界であるのだ。 恐れも愛から生まれる感情で、もともとそれも愛なのかも知れない。 マザー・テレサの言によれば愛の反対は無関心であるそうで、あの世に行くと無関心の罪で厳格に裁かれるそうである。 全ての悪事は他者への無関心から生じている。 他者への愛と思いやりがあれば悪事などできよう筈もなく、人間界への神のメッセージは「大丈夫、心配するな」「安心しろ」だそうである。 平成27年。 日本国の年末の一字は「安」であるそうだ。 恐らく安全保障の問題が絡んでいると思えるが、心を安らかに保って何事にも肯定的に対処していくことが肝要かも知れない。 来年は申年。 真実はにんべんをつけて伸だそうである。 大に伸び盛える世界を祈念して・・・。 「恐れさせない」「恐れない」をモットーに過ごして生きたいと考えている。 ありがとうございました M田朋久 |