コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 努力2015.11.27

忍耐とか努力とか子供の勉強には絶対必要用件と思えるけれども、大人になってこの年にもなれば何となく重苦しい語感がして出来れば避けたい。
つまり努力や忍耐などは出来ればしたくない・・・というのが多くの“大人”の人々の本音ではないだろうか。
筆者も個人的にも最近まで嫌いな言葉であった。
ところが・・・。
或る映画と或るセミナー受講によってこの考え方がかなり変化したように思う。

「愛」は努力なしには相手にも伝わらない。

ナルホド、そうなんだ。
あらためて言うまでもなく、愛は何らかの努力によってはじめて形になると言える。
大袈裟でなく自らの生命を犠牲にすることと言っても良い。
相手の為に時間を作ることも愛のある行為で、たとえば電話に出るという軽いものから生命そのものを捧げること、真の意味での「自己犠牲」は愛の行為の最高のものかも知れない。

「ビリギャル」という実話を元にした映画が最近ビデオで出ていて、知人に勧められて観てみた。
学年でビリの偏差値の女の子が僅か1年の激しい勉強で日本の私学の最高峰・慶応大学に入学を果たすという奇跡の物語で久々に感動して涙した。

普通の頭脳の持ち主でなくても、かなり「頭の良い」人でも勉強という努力をしなければ成績(偏差値)を上げることはできない。
元々は素晴らしい頭脳であっても努力するという力を持っていなければ成果を得ることは出来ないのだ。
この分かりきった事実を置き去りにして、最近の成功本には、努力とか頑張るとかについてどちらかというと否定的に表現してある類書が多い。
皆さん楽をして成功したのである、多分。
そのようなeasy going的な側面が成功に必要であることは或る意味否めないけれども・・・。
ここでの詳述はしないがそのこととは別に、こと学業成績について、あるいは人間関係については努力というものの価値にいささかの毀損も加えない。
つまり努力なしに有名大学に合格することはなく、努力なしに悪化した人間関係を修復することはできない・・・のではないかと思える。

件の「ビリギャル」で感動的であったのは、本人の非常な努力もさることながら母親の愛、塾教師の愛だ。
それも大変な努力でもって示される。
母親は塾代を捻出する為にパートで働き、塾教師は生徒達一人一人の為に夜遅くまで仕事をする。
そうして遊び友達もひそかにこのヒロイン(受験生)の並々ならぬ努力を見て自分たちなりに応援する。
周囲の人々の熱い愛の努力によって見事に慶大合格という栄冠を手にするのだ。

この主人公の女子の勉強のやり方が面白い。
遊びながら勉強している。
カラオケボックスに勉強道具を持ち込んで歌の合間に勉強するというスタイル。
これは筆者も得意技で学生時代はカバンに教科書やノートを常に携行して、海辺でサーフィンの合間に、スキー場で、喫茶店で、図書館で・・・等々遊びの間も勉強を絶やさないというやり方が共感できる。
全く別の意味で継続は力なり。
即ちやりつづけるという意味より間をおかないという継続。
人間の記憶曲線の理論からすると、繰り返すことと間をおかないことがその効率性において有利であると確信しているし、勉強の中心はやはり記憶であるのは仕方がないのだ。

以前も今も「詰め込み過ぎ」「記憶させ過ぎ」の弊害が声高に叫ばれていたが、今は記憶をおろそかにする「詰め込まなさ過ぎ」の病の方が大きいと思える。
上記は多くの受験生、大学生、勉強をしなければという立場のあらゆる老若男女に適応できる法則であると思えるので、この映画ビリギャルを参考にされたらと思う。

それにしてもこの主人公の母親の子供に対する接し方、心構えには感動させられる。
子を持つ多くの母にも観て欲しい映画だ。
繰り返しになるが「愛は努力なしには相手に伝わらない」のだ。
肝に銘じたい言葉である。

ありがとうございました
M田朋久



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