コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 元気2015. 9.26

「元々何もなかったんだという考え方から生じる肯定的感情」
これが筆者の解答である。
ありていに表現するならそれは感謝かも知れない。

結果的にきわめて陳腐でありきたりな結論になってしまうが、「真理というものは、いつもたいてい平凡な言葉で表される」の例にたがわず、元気の素になる精神的作業もまた実に平凡なものだったのである。
私たち人間は人生という名の「生まれてから死ぬまでの時間」を所有している。(実態は所有というより授かっている)
そうしてそれはもともと何も無かったところ、つまり「無」から生じている。
人間の考える無のレベルではない。
それはあらゆるもの、この世のすべてを生み出す無限界に近い豊穣で偉大な力、世界の源泉をあえて「無」と表現してみると、何から何までこの世界の全てが元々無かったもの、また先々では全てがキレイサッパリと消滅して、再び無の世界に帰するという性質のものだ・・・という自覚は殆んどの悩みや煩悩を霧散させ人間に元気を取り戻させるのではないか・・・と筆者はしみじみと考えるのである。

一方、元気の反対語と言える「病気」について考えてみたい。
病だれ「疒」の中には丙という文字が入れ込まれている。
丙とは芽が出て茂ることとある。
つまり植物だけでなくあらゆるモノが多く繁茂しごちゃごちゃと「つまっている」状態を示している。
即ち色々「在り」過ぎる状態を表している。
それに疒が組み合わさって病の気となる。
一言でいうと考えすぎ。もっと言うなら、やり過ぎ、行動しすぎ、行動しなさすぎ(考えすぎの結果なることが多い)。持ちすぎ(所有しすぎ)、抱えすぎ、飲みすぎ、食べ過ぎ、こだわりすぎ、とらわれ過ぎ、欲張りすぎ、・・・。

こう考えると元に戻る、元に返る、即ち元の気、元気になるとはあらゆるものを「手放す」ことに他ならない・・・ということではないか。

気とはエネルギーのことである。
パワーのことである。
その源はやはり「元」なのである。
言い換えれば何も無かった元の状態、即ち「無」と考えて良いだろう。何もかも捨て去ることで得られる気(エネルギー)を「元気」と考えても良い。
ごくごく単純に「何も考えない」と明確に決断し実行するだけで瞬間的に元気を得ることができる。これは多くの現代人もうすうす感じている感覚ではないだろうか。

なんだか堂々めぐりのような論になってしまったがこのような「考え」は衰えた気を元気にする・・・と個人的には思える。
このような心の作業が、今所有しているこの世界の全て、見るもの、聞くもの、触れるもの、味わうものなど感覚できるものだけでなく実際に「所有」しているあらゆるものに深い感謝を感じないではいられない心境にさせてくれるかもしれない。

奇跡。
生きていること。
それだけで奇跡のように有難いことなのだ。
あ〜それなのに、それなのに・・・。
毎日の生きていくことの悩ましさよ。
上記は元気についてのただの思いつきの小理屈ではあるけれど・・・。

「自分で所有していると思っていたもの全てが元々は無かったものだった」

という気づきは

「墓場には何も持って行けない」
という深い自覚と同じように、あらゆる執着を捨てさせ、心地よい「あきらめ」(諦め、悟り)の境地に自らの心を至らせ、少なくとも心を元気にしてくれそうである。重い心を軽くしてくれそうである。ついでに愛や感謝の心も育んでくれるかも知れない。

たったこの考えだけで、今見ている素晴らしい景色や絵画を見ている対象も、それを見ている自分の目もまたそれを美しいと感じる自分の脳も、またまたすばらしい音楽や愛おしい人の声を聴くこの耳も、その奥にある脳も・・・、この歩いている足も、この大地も空も全てが愛おしく輝いて見える、イヤ聞こえる、イヤ感じる・・・やっぱり人生感謝だネ・・・ありがたや、ありがたや・・・。
元気でありがたや・・・。元気でなくてもありがたや・・・。

ついでに述べると「病」すらもそれを感謝することで快方に向かい、中には完治するという説もあり、これを説いて有名になった某産婦人科医の先生もおられるそうだ。

いずれにしても個人的には、これを書いている段階で自分が夢のような生活をしているように、深く感じられれて思わず落涙するほどである。

ありがとうございました
M田朋久



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