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■ If、もしも | 2015. 9.11 |
表題のイギリス映画があって、筆者の心に衝撃を与えた。 1968年製作で公開が69年であるので、16才のときに映画館で観たことになる。 当時は寮生活の真最中で中学1年(12才)から4年目であるので高校1年の時の映画。 内容はパブリックスクール(イギリスの私立学校でトップ10%のエリート校、学費も高い)に通う反体制的な少年以下、言うならば非行少年の反抗の物語。 似たような境遇だったので、いたく共感したものと思える。 ラストは学校で銃の乱射をするシーンで、そのためか映画祭でグランプリを受賞したにもかかわらずVHSビデオまでは出たがDVD化はされていない。 またアメリカでも公開されていないようだ。 さもありなん、銃規制の甘いアメリカでは公開されず規制の厳格な日本では公開された「ありえへん」物語というワケである。 筆者がこの映画を懐かしく思い出すのは2つのシーンで、ひとつは少年二人がオートバイを盗んで田舎道を駆け抜けるシーンと寮母だか女教だか不明ではあるが露出趣味の体格の良い中年女性が、無人の食堂とかを歩きまわる・・・というもので、そのエロチックな光景には度肝を抜かれた。同じ1960年に発表されたスタンリー・キューブリック監督の「時計じかけのオレンジ」のレイプシーンにも通じるエロスむんむんのシーンは少年の目には恐らく毒だ。 今ならR18指定はマチガイないと思える。 ちなみに両作品とも主演は怪優マルコム・マクダウェル。 ギョロ目、団子鼻、独特の容貌に憧れを感じなかったのが幸いであるが、反体制のへの憧憬は養われた気がする。 1971年には同じく「小さな恋のメロディー」という、これまた厳格さと対抗する少年少女の反体制的行動を描いたもので、伝統と若者たち、少年たちの対立が剥き出しになった時代が60年代、70年代というワケであろう。 最近はこれらの対立という構図は見られないようだ。 もしも・・・if。 人生にこれは持ち込めない。 後悔が生じるし、有害無益だからだ。 「もし〜だったら」。 これを思って苦しむ人が時々おられるが、心の病の元であるのでただちにやめた方が良い。 「すべてうまくいっている」 いつもそう思うようにしてきたし、結果的にそうなっている。 もしも、ifの反対語はEverythings are going well(すべてうまくいっている)となる。 世の中には逆らって無駄なものが3つある。 ・時間の経過 ・お上 ・世間 意外に思われるかも知れないが、筆者の場合、全く持って日和見主義的楽天家、他力本願的願望実現主義者と表現できるかも知れない。 「逆らえないものには逆らえない」 これが筆者の人生訓でもあるようだ。 もしもあの時・・・だったら・・・なんて考えて悔やんでいる暇があったら、現状打開の方法か願望実現の方法かとにかく、未来にむけて思考や活動を、直ちに開始した方が良い・・とうのは言うまでもない。 「どぶろっく」というお笑いコンビの「もしかしてだけど・・・」につづく男の妄想には、ある種の愉快さもあるけれど、お笑い特有のもの悲しさいっぱいの「オチ」がつづく。 人生に「もしも」を持ち込んではイケナイとつくづく思う今日この頃である。 追記 「もしも〜だったら〜」(過去) 「もしも〜なったら〜」(未来)は当然異なる。 後者は未来における、どちらかというとネガティブな仮定について語られる内容である。 確かに病気や事故や災害をある程度予測して備える、たとえば保険や対策、健康管理などは、最低限必要であることは認めざるを得ない。しかし、それらの想定内、想定外の事件に対してすらも、あまり実人生にあまり持ち込むべきではないと考える。なぜならそれらの想定、即ち「心配」は現実化することが多く、また本来気軽で楽しかるべき「今」を毀損破壊してしまうからである。 「備え」は必要、「心配」は不要というわけである。 世の中全般に漂う沈滞ムード(不景気)も保険会社の興隆も、これらの人間心理を背景に生じている・・・と考えられるので、経済番組や事件、災害、事故などの流されるニュースや報道番組など、個人的にはあまり観ないようにしている。 そもそも「もしも〜」ばかり考えていたら何も行動が起こらず大きな「失敗」がない代わり「成功」もないし、人生全体としてみれば人生で「何もしなかった」という極めて大きな「失敗」と考えてよいだろう。 ありがとうございました M田朋久 |