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■ 考え方 | 2015. 9. 9 |
色々な悩みやら問題やらが人生には必ず生じるものらしいけれども、その時々の問題解決法の中で、この「考え方」を変えるという切り口も結構有効で、筆者もこの手法で乗り切ったことも多かったので少しこのことについて書いてみたい。 実のところ、問題の原因を人や誰か、何か世間や環境などのせいにするのが最悪の考え方に思える。 これは所謂「被害者意識」というもので「自分の力ではどうすることもできない」「自分は(この問題について)無力である」と宣言しているようなものである。 何よりも「自分の考え方、解釈」を第一の原因(その問題や悩みの)とするのが知性も教養もある正当な人間の心の姿勢と思える。 物事というものはすべていかなる理不尽な出来事、事態ですら解釈を変える(例えば被害者意識から自己責任・・・)ことによって一気に精神の得ることができる・・・と考えている。 些末な例で恐縮だが、たとえば台風かなんかで電車が止まったとする。 目的地に着くのに2駅も3駅分も歩かなければならないとする。 この場合、歩くのが嫌だ、苦手だという人がこれらの事態がどれだけ苦痛か想像するに難くない。 この時にフッとこんな「考え」が脳裏に浮かんだらどうだろう。 「自分は何らかのタチの悪い病気にかかって歩けなくなっていたのに、昨日奇跡的に治って歩けるようになった。ああ何と有難く嬉しいことだろう。こんなに歩くということが気持ち良く素敵なことなんて・・・」てな考え・・・という想像は自らの気分を相当ハッピーにする・・・と思える。 こんな風に考える場面とか状況は数限りなくあらゆる場面であるワケで、無限に対応できる。 人間の想像力は素晴らしい作用をその心身にもたらすようで、戦時中の強制収用所でも生き延びた人々というのは、強い人でも逞しい人でもなく、この想像力を前向きに作動できた人だけだそうである。 それに音楽。 鼻歌でも合唱でも一人カラオケでもBGMでもいいので「歌」を生活に取り入れると相当元気がでるものであるようだ。 モチロン、プラスの言葉のいっぱい散りばめられた歌が良く、別れとか涙とかせつなさ、つらさとかの言葉の多い演歌系の歌はよろしくないそうだ。 昭和の歌姫、あの偉大な美空ひばりですら「悲しい酒」とかの歌、同じく坂本九「上を向いて歩こう」なども同じく悲しい歌で、多くの歌には悲しみが含まれていてそれなりに多くの人々の心を掴み大ヒットするワケであるけれども、度々心を込めて「歌う」となるとその言葉から何らかの被害をこうむってしまうような気がする。 歌っている本人はいずれも早逝したように、一般の人もその口ずさむ歌は用心して選択したいものだ。 筆者の好きな歌は来生たかおの「good−by−day」「セカンドラブ」。 いずれもよく歌詞を聴いていると物凄くおだやかでpositiveな内容になっていて安心して歌える作品である。 話を戻す。 「〜よりはマシ」という比較法という考え方は心の底に或る種の罪悪感を生じせしめるが、効果的には結構イケてる。 自分は「あんなにひどくないだろう」みたいに「目クソ鼻クソを笑う」という多少レベルの低い姑息な考え方の選択も、当人にとったらしびれる程の安堵感と心の平和を得られるかも知れない。 クルマを変えて2週間、家を変えて1ヶ月、配偶者を変えて1年などと、変えても心の変容はさほどでもないけれど、考え方をよくよく変え続けるならば、一生涯心の平安と健やかな肉体と何の障害もない人生生活を得られるとしたらこんな安上がりで結構なものはないと思うのだが、多くの人がそれを軽んじ、ためらい、実行せず、幸福で楽しくあるべき自らの人生を台無しにしているケースの何と多いことか・・・。 自分の考え方を時々は全面的に疑ってかかり、即ちこの考え方は自分を幸福で楽しい人生に導くものかよく吟味深考して、時には「変更する」「変えてみる」という勇気ある決断をしても良いのではないかと思える。 易的に言うと、自分の「考え」に固執する傾向の強い人がいて、それ(考え)を否定されると自分自身のアイデンティティーへの脅威と捉えてしまう人もいるが、これらの人の運勢の「悲運」特徴を率直に述べると「不運」というもので、特に「金運のなさ」というのが際だった人生結果と思える。 言い換えるならば頑固な人、とりわけ自分の考えに執着する害について中国の古典は「執理の病は医し難し」と表現されている。 即ち理屈に凝り固まった人、自分の考えに固執する人の救い難さが示されている心したい言葉だ。 ありがとうございました M田朋久 |