コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 私の自救論2015. 8.26

スマイルズという人の「自助論」というのがあって、あやかって表題にかかげてみた。
人を救うこともままならないのに自分を救うなんて何とおこがましいことか・・・と思えるけれども、あくまで精神的なものなのでご容赦いただきたい。
精神的な意味で

「自分を救えるのは自分しかいない」

のである。
少しあやしげな宗教ならこのことを分かっているのに、自分たちの教祖、教義、教団しかあなたを救えませんなどとブッダやキリストや聖書やはたまた何かしら数奇な理論理屈で多くの無辜の人々を騙しにかかるが、これは騙すほうも騙される方も割りと自覚がないことがあり、概して結果結末は悲劇的なものになることが多いようだ。
自分というものを深める(これについて否定的な方も時々おられるが・・・)ことが最も自救となると筆者は考えている。

人間の理性、時に感情・感覚の殆どは幼児期、イヤ生下時から積み上げられたこだわり、とらわれ、信念、執着、思い込み、考え方のかたまりでできていて、純粋に本来自然な「自分の考え」ではない。
そもそも思考の道具である言葉とその意味、概念からして本当の自分のものではなく他の人(親も含めて)から半強制的に伝授されたものである。
「私の考え」というもののまやかしさには殆ど人は気づいていない。
ましてやそれに執着するなど愚かしさの極みと思えるがこれを自信たっぷりに述べられる方を見ると何かしら滑稽でありそこはかとなくモノ悲しい。

まずはこれらの理屈を頭に入れてから本題に入りたい。

最近筆者の心に瞬間的に湧き起こる何とも言えない虚無感の発作が少なからず自分を苦しめていて、人生を濃黒色のヘドロのような沼に沈み込ませる。
油断しているとこれに“戦い”を挑み見事にあえなく敗北する。
実際には虚無というものには完膚なきまでに打ちのめされ、敗北し平伏する方が良い・・・というよりそれしか対処法はない。
この虚無感という精神の状態が自らを「救う」ためのアンカー(錨)になる。つまり「とっかかり」「釘とめ」となる。チャンスとなる。
これをごまかす、たとえば飲酒、ギャンブル、一部の有害な薬物、宗教、買い物、SEXなどあらゆる依存の対象から距離を置いて、さらに言うとキチンと遠ざけて虚無の中に沈潜するのが良い。

どんな人、たとえば世界中の栄耀栄華や莫大な富や名誉や世間的な幸福や一般的な勝利を勝ち得たとして、それがいったい何の意味があるというのだ・・・。人生を終えるときにそれらが一瞬の快楽を脳にもたらすかも知れないが、それがどうした・・・というのだ。特に愛の無い人生ならば野垂れ死にと同じだ。アメリカ映画「ゴッドファーザーpartV」のラストシーンにはこれがキチンと描かれている。
そもそも人生というものはもともと虚しいものなのだ。
この考え方をニヒリズムともいう。昔流行した。

話をもどそう。
虚無を味わい、飲み込み、咀嚼し、観察し、調べる。
そうしてそれらのすべてを受け入れる。
それを受け入れられないならば、その受け入れられないことを受け入れる。
つまり物事一切の全受容、全肯定こそ自救の出発点、土台となる。
このことが自らを救う救命ボートになり、飛行場の滑走路になり、ロケットの発射台になる。

そうして具体的には、「頭を使わない」、筋肉の力を抜く、丹田(ヘソの下の3センチところ)に意識を集中する。
呼吸を深くゆっくりするなど身体的なアプローチも有効である。

自分の肉体と精神とを宇宙のリズムに同調させ、風に舞う木の葉、川面に落ちて流される花びらのように悠久の時間に身をまかせゆったりとくつろいでいると次第に満々とした活力が湧いてくる。

もしかして出てこなければ一部の適切な効うつ剤など少量使用するのも良いかも知れない。
脳の活動を整調させるのに或る種の薬物は極めて有効である。

これらの手続きを経て気分の良好さ、穏やかさ、やすらぎ、平和を勝ち得ると実生活においても殆どのトラブル、障害、有害事象という厄介事からフリーでいられる・・・筈である。
これに霊的な調整をするともっと確実な効果が得られるが、これは後述したい。

ありがとうございました
M田朋久



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