コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 仕事2015. 7.31

多くの人々にとって仕事とは「生活の為」の、どちらかと言うとソレは単なる「生きる為の手段」であり、とりたてて楽しいものではなく「仕方なく」軽い義務感、責任感をともなって行われる「事」即ち言い換えるならば「仕方なくする事」に成り下がった作業の集合体であるという気がする。
これは多くの人々へのインタビューで確認された事実であり白書でのデータでもそういう風になっているようだ。
悲しい話だ。
何故なら人生の大部分、平日の起きている時間の1/3、即ち8時間あまりを仕方なく、イヤイヤ過ごすというのは大変な人生の損失喪失と思えるからだ。

生活の為に仕事をする、働くというのは、一見正当な動機による正しい行動に思えるが、よく深考すると、それはひとつの悪徳ではないかと思える。仕事の価値を毀損する不徳と考える。
それは自分自身に対する深い罪のような気がする。
家族の為、自分の為、社会の為と言葉で言いながら一見倫理道徳に沿って行われる自己犠牲的仕事は自分の「心」にとって大いなる偽善と思える。
私はこれ(仕事)を家族の為、子供の為に義務として行っている・・・これは成る程或る意味麗しいコトではある。
誰に何も非難されることではないけれど、そこに潜む微かな背徳の匂いは二言で述べるなら「人生の労費?」「神に対しての罪」と思える。
モチロン多少イヤイヤでも何かしらの修行、苦行と仕事を捉え自己成長の手段手法と考えることはできる。
それにしても現代の時間感覚では時間が長すぎる。
「労働を担保するのは忍耐か継続力」であるとされているので或る程度は許せるが一般労働者の8時間まるまる忍耐というのは本当に悲しい。

イスラムの世界ではもっとこのあたりは明確に認識されているそうで、労働は「必要悪」であるそうだ。
その上遊びは子供のするもので大人にとっては「悪」。
イスラム世界の人々の最も重視するのは「祈り」であり「家族との団欒」であるそうな。それはそれで結構なこととは思うけれど、これでは社会が成り立たないのではないかと思える。非イスラムとのいざこざや衝突もこれらの文化・価値観の違いによるものも原因しているような気がする。
世界中の人々が労働をそのようにひとつの義務、苦行、生活の為の手段と考えているフシがあるのに政治家から経済人から一般大衆まで失業率の高さを嘆いている・・・というのは或る種の矛盾ではないか。

日本国憲法でも教育・勤労・納税は三大義務とされているが、これは視点を変えるならば権利と考えることができる。きちんと教育を受けて仕事を通じて社会に貢献し納税することで国家社会に役に立っているという感覚は素晴らしいものと思えるが、それを回避しようと考える人も多い。

ケビン・クラインというアメリカの俳優さんの「デーブ」という映画があって、物語は大統領の替え玉として無理矢理仕立てられたクラインさんが本物の大統領が脳卒中で意識不明の間に善政を断行し問題を解決していくと同時に本物の大統領とは不仲のファーストレディー(シガーニー・ウィーバー)に恋をする・・・というロマンチックコメディーで、この偽大統領の打ち立てた政策が失業0政策というもので主人公の労働に対する考え方がとても健全に思えた。
「今日は月曜日、働く日〜」なんて鼻歌でも歌いながら仕事にいそしむ姿は本業のマジメなキリスト教徒の思想が色濃く滲んだ作品と言える。

そもそも労働=仕事ではない。
労働はその呼称のとおり労苦の労、つまり苦役に近い。
英語でもワ〜苦(WORK)
Labor労働者なんていう言葉もSlave奴隷からきている言葉だそうだ。
そして人が働く・・・。
どうしても苦痛ばかりが浮かび上がる。

一方仕事とは「仕える事」。
何に、誰に仕えるかというと神に仕える事、そうして自分に仕える事、祈りをこめて仕える事と言える。

通販事業の大手ジャパネットタカタの高田明氏の言葉に「人は人の為に動いてこそ人」。
この言葉こそ人間というものにおける仕事の意味合いを示していると思える。

氏の好きな言葉だそうで、恐らく会社の理念にも込められている筈だ。
人に仕えるということは神に仕えることであり自分自身に仕えることである。
それを祈りや愛と感謝を込めて喜びを持って行うのが本当の意味の仕事なのではないか。
もしかしてその仕事が何かしら苦痛を感じるものであっても何らかのささやかな喜びを見つけて楽しむべきではないかと考えている。
25年ほど前、35才の時に日本創造研究所という会社の自己啓発セミナーに参加したとき(このセミナーが筆者の人生の大きな転換点になった)にコミットメントゲームというのがあって、これは理由もやり方も告げられず単純な作業を次々と命令されてやらされるワケであるけれども、それは或る意味忍耐力テスト、継続力テストでもあるワケで、意味の無い「仕事」をいかに楽につづけられるかを知らされずにテスト、訓練されていたもので当時はリーダーであった。
筆者はとにかく楽しんでやれとばかりに命令どおりに動くのに部屋中を移動しまくって他のメンバーに触れたり伸び上がったり飛び跳ねたりして動いていたらいきなり「合格」ということで外に出されてしまった。

この経験から学んだこと、それは「忍耐力」=「楽しむ力」ということ。

どんな仕事にも先述した深い意味づけと共に、この「楽しむ力」を身につけることが望ましい。
それは人間関係から得られ、自由な感覚から得られる・・・と心から実感した。
筆者の場合、仕事と遊びの喜びの感覚に大きな差がない。
どちらかというと遊びより仕事が楽しいと感じることのほうが多い。
たとえばハワイのビーチでくつろいでいるよりも仕事で患者さんと話をしている、スタッフと話をしている方が心より楽しいと感じる・・・ので海外旅行などに行ってもすぐに帰りたくなる。
まだゲーム性の高いスポーツとかギャンブルとかよりも本で調べ物をしたり、こうしてコラムを書いたりする方がはるかに脳の快感を得られる。
大好きな趣味のオートバイも仕事に劣る。
夜の店など数段落ちる。
最近お酒も気分が悪くなる。
或る意味ありがたいことではある。

いずれにしても、仕事を生活の糧を得るための手段だけにしていると、生活の維持レベルに収入が固定されてしまうかも知れず、それこそ夢も希望もない・・・という感じになりそうに思えるがいかがであろうか。

「プロというのは、寝ても覚めても仕事のことを考えている。生活のすべてが仕事。そこがアマチュアとの差だ」ー相田みつおー
お金をいただだいている以上すべての仕事人はプロといえる。参考にしたい言葉である。
ありがとうございました
M田朋久



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