[戻る] |
■ 「妻が構ってくれない」 | 2015. 7.15 |
とうとう来たかという事件の発端が上記の言葉にシンボライズされる多くの夫たちの心情であった。 子供計4人の家族の焼死。 夫の発作的な放火という行動の結末が誠に痛ましい事件へと発展してしまった。 「犯人」は自衛官らしい。 言わば単身赴任で広島の駐屯地への帰隊に際し妻が見送らなかったことでこの男性の怒りが一気に爆発したのだ。 心理的には怒りの底には必ず「寂しさ」があるそうで、件の放火犯は寂しさの極致にあったのだ・・・ということが伺える。 最近(実際は昔からあるパターンと思えるが・・・)はこのような感情のもつれによる離婚も多い。 男女が恋に落ち(これは一種の精神的病であるらしい)、結婚し子供が出来る。 これはカタチとしてはそれなりではあるが場合によっては非常に危険な事態でもある。 週刊誌の記事では職場(自衛隊)でのパワハラ、心理的ストレス状態など「犯人」の背景に原因を求めているフシがあるが、その理由付けはあくまで表面的、評論家的で浅薄な単なる屁理屈に思える。 「動機」の中心を成す精神の物語は夫婦間、真の意味の男女関係とそれぞれの持つ生い立ち、親子関係によって生まれた愛の物語のひとつの結末としてこの「事件」があると考えている。 「親(父親にしろ母親にしろ)が構ってくれない」 「妻が構ってくれない」 これらは同じものである。 甘えたいのである。 夫婦喧嘩の時の精神年齢は6才。 甘えたい盛り、自己主張と顔色うかがいの盛り・・・、6才の少年が母親に構ってもらえないと淋しさ、悲しさを通り過ぎて激しく「怒る」のである。 その結果として母親を攻撃する、非難する。 母親を妻に置き換える・・・という構図は分かりやすい。 その上「男」としての怒りもある。 男女共に起こる欲求不満という極めて厄介な肉体の不快感がマグマの大噴火のごとく激しい暴言・暴力となって妻(母)に向けられるのだ。 この欲求不満の状況は妻や母などでなく「女」を求める、「男」を求める。 そうしてその腹いせが子供に向かうのだ。 精神的に未熟な男女ほどこの傾向が顕著だ。 女性は結婚すると当初は「女」であるが、そのうち妻になり母になり果ては主婦になり女将になり山の神になりと放っておくとドンドン果てしなく自分で偉くなっていく。 そうして自分の夫よりも子供を大事にするようになり、性的結合が減じてくるとさらにこの傾向が強くなり、夫(男)の心身の不満は絶頂に達する。 社会で起こる大事件というものの殆んどが人間心理の闇の部分の顕現であるので、個人のレベルでも決して他人事と捉えてはイケナイ。 誰の家、個人でも起こり得ることなのだ。 万引きや盗撮など軽い犯罪から詐欺や脅迫など中くらいの犯罪、強盗、強姦、殺人、放火などの重大な犯罪まで人間の心の奥に潜む暗部をまざまざと見せてくれるので人々はそれらの事件に関心を持ち、思わず知らずそれぞれの耳目を向けてしまうのだ。 つまり殆んどの人が共通して持っている人に見せられない隠れた欲望は社会の中ではじけてしまった人間が代表して示してくれているのだ。 「用心しろよ」と・・・。 だから敢えて述べたい。 もっと夫や妻や子供に構ってあげましょう。 少なくとも最低限挨拶はしましょう・・・と。 この事件に接して思いだされた筆者の経験も記しておきたい。 民族紛争の勃発したアフリカのソマリアという国に日本青年会議所の国境なき奉仕団という「国境なき医師団」をもじった委員会のメンバーとしてミルクとか医薬品を運んで届けること、視察することを目的として出かけた折に妻も東京の姉に会いに行くから一緒にと鹿児島空港から羽田まで飛行機に同乗し空港で別れたのであるが、この時のシーンが忘れられない。 ソマリア行きの飛行機に乗るべく成田国際空港行きのバスに乗り込んで座席に腰をおろして妻に手を振ったところ見送りもせず妻は姉と二人でスタスタと振り向きもせずに空港出口に向かって歩いて行く後ろ姿を見る羽目になった。 決死の覚悟で行く初めての海外旅行なのに・・・である。 情景には何の説明もいるまい。 ただ小さな、ささやかな出来事であるけれど心の中に一生残っていくであろう残像である。 モチロンこのことで恨み言を言ったり、怒ったり、悲しんだりしたワケではないけれど、妻の心の中における自分の存在の軽重がいかなるものかは分からないけれど少なくとも軽く扱われたという事実は消えないし「見送る」ことの大切さをドラマや映画、特に戦争のソレ、ビジネスの現場での重要性をあらためて認識させられた。 重ねて述べたい。 決して他人事ではない・・・と。 ありがとうございました M田朋久 |