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■ Pain | 2015. 7. 7 |
英語で「痛み」という意味であるが、英語圏ではどちらかというと主に心の痛みについて表現される言葉であるらしい。 肉体の痛みはAcheとのことだ。 先日観た「白熱教室」。 おなじみのマイケル・サンデル氏の問答形式の「授業」でのハーバード大学の黒人男子学生の言葉に心打たれて下記してみた。 『自分の人生にとってとても大切な人がいても、その人もいつか死ぬ運命にあります。 つまり人生には限られた時間しかないということです。 その人が生きている間にいかに親密になっているかが大切で、人生をあるがままに慈しむことが大切ということです。 僕の個人的な経験ですが、死んだ人は犬でもインコでもなく母でした。 それから成長するとあの時の悲しみを乗り越えることは人生で経験した中で最も輝かしいことでした。 人間の強さを確かめる厳しい試練の時でした。 人として真に大切なのは苦しみと闘い、痛みを堪え、酷い経験を経て、そこから輝かしい何かを生み出そうとすることです。』 ナカナカ含蓄のある言葉であると筆者は感じた。 これはクローン人間を創るかどうかという問いに答えて反対の立場からの解答として発言されたものである。 浜田省吾の歌にPainというのがある。 ♪キミを失った時に手の平から世界も一緒にこぼれて落ちた♪ かなり哀調を帯びたバラード曲で♪意味のない仕事に・・・♪とつづく。 「愛する人を失う」ということはひとつの自分の世界が瞬間的に、時に全体的に、時に部分的になくなるということだ。 これは良く分かる。 激しい喪失の痛み、それは死者・生者を問わない。 胸が張り裂けそうだ。 愛が冷めた相手でなくても愛しているからこその別れというものもいくつか経験した。 再会してもかつての愛がそのまま復活するワケでもないし、何もかも過ぎて行ってしまうという人生という名の時間の残酷で厳しい側面をつきつけられ、多くの人間ははじめて哲学的に生きるということを学ぶのだ。 ・・・というよりさらに人間らしく生きることを選択できる可能性の機会を得たというべきか・・・。 アメリカ映画で「マックスペイン」という割と最近の作品がある。 今人気のマーク・ウォルバーグという少し短軀ながらガタイの良い、眉間に縦ジワの深く刻まれた俳優さんが主役で、奥さんを悪人に殺され復讐鬼のようになって悪漢共を懲らしめるというステレオタイプの映画である。 どうもアメリカ人は奥さんを殺すのが好きらしい。 「逃亡者」というテレビドラマも映画も「妻殺し」の嫌疑をかけられて警察から逃げまくるというモノで、どんなカタチにしろ「奥さんが死ぬ」というシチュエーションは愛と憎のシンボルとしての妻というものの存在の重さ、大きさにあらためて気づかされる。 愛妻を他人に殺されたり盗られたりして平常心でいられる男はいるまいが、かと言って少しだけ「清々しさ」「せいせいした」、ホンノ微かでも密やかな何かしらの安堵、喜びみたいな心が怒りや悲しみの中に隠されているような気がする。 それこそPainの中にEcstasyがあるかも知れず、これはそれなりに不気味ではある。 女性に後ろから刺されたという大学の後輩がいて、その左の腎臓のあたりの傷痕を実際に見せてもらったが、その男はエロスの塊のような野性的なイケメンで、さもありなんと思ったけれども刺した女性も刺されたその男にも何かしらの嫉妬を感じた。 それだけの情念を燃やして付き合っていたというところが羨ましい・・・と感じたのだ。 時々傷痕が痛むと言っていたが、その男にとってみればそれはひとつの「男の勲章」であるかもしれず、その相手の女性の愛が、Painとして、伝わる傷のache(痛み)のようで、何だか少し嬉しそうであった。 筆者も刺されそうになったことがあって刃傷沙汰が恐ろしくて110番したが説教されたのは筆者の方で、相手の女性はパトカーに乗せられて丁重に自宅まで送られた。 「何てこったい」。 うしろから蹴られて突き飛ばされたこともあったが、そこに彼女の愛を感じ、甘い快感を伴った「痛み」で、その時の痛みは彼女の心のモノの方がはるかに強かったに違いない。 そう言えば「蹴りたい背中」という若い女性の書いた芥川賞作品もあったなあ。 女心は本当にようワカラン。 Painの質も親子や男女や夫婦で違うものであるようだ。 ありがとうございました M田朋久 |