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■ 6月30日 | 2015. 7. 1 |
昭和53年6月30日の朝。 神奈川県伊勢原市の東海大学付属病院の手術室。 臨床実習(医学部では通称ポリクリと呼ばれている)で脳外科のオペを見学していた時、実家から電話があった。 内心ではとうとう来たかみたいな冷やっとしたイヤな感じと醒めた覚悟みたいなクールな感じとがあって、それは当時ではとても言葉にできなかった「父親の死」を一瞬で確信していたように思う。 殆んど無意識状態で何も荷物を持たず帰郷の途についた。 飛行機、鉄道、タクシーと乗り継いで夜の9時過ぎに自宅に着くと案の定、葬式用の白黒紋様の花輪がコンクリートブロックの塀を空々しく埋めていた。 暗い闇夜に雨。 玄関の寂しげな灯り。 床の間に白々とした蛍光灯の下、顔に白布をかぶせられた父の亡骸が奇妙な空虚さをたたえてふとんの上に沈み込むように横たわっていた。 それは生命の痕跡と言うよりも既にただの物体であった。 「父は死んでしまった」 そのことが受け入れ難い事実。 生まれて初めて知る深い悲しみというものの実体験であった。 それは表現し難いほど強い感情で、どしゃ降りの雨のような一晩中途切れることなく流れつづける涙となって表現されているけれど、思考や思い出というイメージも無く、ただただ悲しいというもので、喪失の痛みとか悔恨とか後悔とかの含まれない純粋な悲しみで、それは全く他の感情や思考や理屈を拒絶してただ悲しみとしてあった・・・と記憶している。 親の死というものはそういうものなのだ。 それは順逆ではなく自然な流れとして受け入れざるを得ない世の中の摂理で仕方の無いことなのだ。 25才の若者も明瞭に理解していた。 それは父親の日頃の激しい性格と行動、大量飲酒、足腰の弱り具合、深夜の往診、急患などストレスフルな毎日を普通にこなしていて、子供ながら生命の危うさを危惧していたワケで、いくら凡庸な頭脳の持ち主でも容易に推測できる50才の夭逝であった。 父50才、息子25才、大学5年生、奇妙な数字のキリの良さは記憶するのには便利だ。 父も筆者も割と雨が好きで、梅雨の長雨も秋の長雨もそれほど嫌いなワケではない。 ただオートバイに乗れないのと、夜、星が見れないことがチョッピリ残念なだけ。 雨の日のドライブ、レインコートや傘をさしての街歩きなど湿った空気と雨音や水の流れる音、車の走行時の水しぶきの音など何となく情趣があって好もしい。 前日まで普通に仕事をして小さな書棚のある畳部屋に横になっていて、午前中に起きてこなかったので友人の内科の先生に往診をしてもらったところ簡単な診療だけで脳幹部出血(詳しくは橋出血)、意識がなくなり瞳孔が針の頭のようにピンポイントになる・・・という特徴を持つ。 やがて高熱が出て呼吸が止まり心臓も止まる。 昔も今も手の施しようのない脳卒中の典型例である。 現在ならば救急車で搬送してCTやらMRIなどで確認するところであるが、父親の友人の先生の判断で殆んど何の治療もせず自宅の書斎で50年のそれなりに波乱に満ちた人生の幕をおろした。 多分、本人の意志ではなかったろうから天に召されたといった感じかも知れない。 そのお世話になった先生には簡単な説明を受けたが、医学生の筆者も自然の流れ、病状・死因についてはただちに諒解をして丁重に礼を述べた。 その先生も10年以上前に肝臓癌で他界された。 確か70才代後半であった。 翌日の葬式は自宅で行われたが、悲しみに暮れる母の手を握り「頑張ろうな」みたいな言葉をかけたように思う。 我ながら似合わない台詞だ。 以来このような類の会話を母としたことはない。 ささやかな葬儀は前夜の雨が嘘のようにやみ、つまり7月1日は全き晴天であった。 「忌引き」を告げず臨床実習を休んでしまったのでその年は留年になってしまった。 学生部長の教授が成績をヒトケタの順位にすれば何とかしてやると請け負ってくれ、休んだ臨床実習、即ち外科の教授は掛け合ってくれたが当時副病院長であった一般外科の教授は頑として首を縦に振らず見事に留年してしまった。 母の嘆きは想像に難くないが、母も長男(筆者)も別に逆境に強い性質のようで、これは真面目な研修態度というものが学業の成績よりも重要なのではないかと一大決心をして色々なビジネス書買い漁り自らの人間改造に取り組んだ。 アパートの自室の壁には「笑顔で挨拶」とか「人には花を持たせろ」とか「目上を敬うだけでなく目下を可愛がれ」など人間性全体を向上させる「努力」をした。 おかげで少なくとも表面的には礼儀正しい、親切で誠実な真面目な医学生にはじめてなったような気がした。 その上何となく周囲の好感も得て気分も良い。 父の死の前の自分がいかに傲慢で不遜で態度や物腰が乱暴で粗雑でワガママであったか分かった。 反省、反省、また反省。 勉強も実習も凄く楽しくなって、留年して下の学年の連中とも親しくなって友達が増えたみたいで何よりであった。 ただし心の中は父を失った喪失感と悲しみで自暴自棄、ヤケクソであったけれども、それを行動にうつすのを辛うじてとめてくれたのがこの留年の悔しさと母にこれ以上苦労をさせたくないという子供心であったように思う。 母は父の死後、自分の医院を遺産を食いつぶしながら福岡から台湾人の外科医を連れて来て4年間ほど営んでいたが突然辞めると言われて、卒業して医者になっていた筆者は「帰って来い」と言われ素直に帰郷して開業医になって既に32年になる。 当時29才、今61才。 丁度ハーフタイム、近頃何かまた始めないと退屈して仕方がない。 61才という年令がどんな仕事ぶりに変えてくれるのか今から楽しみだ。 このまま終わりたくないし父のように夭逝するのもモッタイナイ。 自分を心から愛してくれた人々。 11年前に死んだ母も、8年前に死んだ最愛の女性も、36年前に死んだ父もそれは望んでいないように確信している。 人間は自らの可能性と資源を最大限活用して人生を生きるべきだ、楽しむべきだ。 そうしてその人生が世の中の為、人の為に自然になっている・・・というのが理想なのではないだろうか。 父の墓前でこれだけは誓おうと思う。 自分らしく自信を持って堂々と生きて行こう。 多少、女々しくても卑しくても良いじゃないか、人間だもの。 これは父を看取った友人のM先生の言葉でもあった。 なんだかあいだみつおみたいになっちゃったけど・・・。 梅雨の晴れ間に H27年6月29日 ありがとうございました M田朋久 |