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■ 憂春 | 2015. 4.11 |
あっという間に春が来て、桜も咲いて散って、いきなり初夏ってな按配の今春である。 冬から夏に一気に進んだ感触があるが、天気予報など概観するとおおむね例年どおりのようである。 ところが個人的には今年の春は特に辛い。 いつもなら2月初め頃より晴れ晴れとする筈の気分がいつまでたっても沈み込んだままである。 卒業、入学、進級、就職、異動、決算、納税などなど特に何の問題もないのに何故だか心の底にはどんよりと重く、固く、暗い塊がドッカリと頓挫し、かつての工場地帯の海底に溜った汚泥のように怒り、悲しみ、恐れ、後悔、罪悪感、虚無感、孤独感などなどネガティブ感情が撹拌され汚濁し、ドロドロになって胸の内を満たしている。 あらためて自分の心を探ってみると元々少年時代からあったモノが60才を過ぎて露わになって来たとも考えられる。 とにかく年令のせいか誤魔化しがきかなくなっているような気がする。 ハケ口がないのだ。 スポーツ、ギャンブル、酒、タバコ。 それらのものに没頭でもできれば少しは平静になれると思うけれどそれらに取り組む心の元気が無い。 情けないハナシである。 小池龍之介というお坊さんの書いた本を読んでいると、自分の心のカラクリがまるで数学の問題の解答ページのように解説してあってとてもありがた〜いお説であるけれども、理解はされても尚更悪化する気がする。 心の法則は分かります。 けれども散々に乱れるこの煩悩というものの厄介さ、重さが払拭されない。 カラクリが分かって逆に落ち込むみたいな感覚である。 実際に瞑想座禅に本気で実践しないとイケナイようで、それ(瞑想)をチラッとでも行うと、まるで嵐の間のつかのまの晴れ間のように瞬間的にスッキリする。 そうだ、瞑想だ。 瞑想の習慣化だ。 これしかないと最近気づきつつあるのは、或る意味我が人生にとって大いなる暁光かもしれない。 少年時代には父親の酒乱とDVと夫婦喧嘩のため毎日家出をしていた。 その結果、絶対的な心の平和は家にはなく、家の外の暗やみの野原や夜の街にあった。 そこには自由があり、孤独がある。 暗く悲しみに満ちた目をしてみすぼらしいでたちの汚れた顔の少年が夜の街をさまよう。(今や60を超えて絵にならない。しゃれにもならない) つかの間の心のやすらぎを求めて夜をさまよう。 少年らしい温かく優しい母性愛や父性愛をあきらめて・・・。 家族とか家庭への強い抵抗や母性愛に対してのとまどい、恐れ。 心の底には渇望している筈なのに潜在意識がそれをゆるさない。 夜の闇。 そこには子供の頃に求めつづけて来た自由がある。 自分のお金で酒を飲み、タバコを喫い、クルマやバイクを運転し思い切り大人の自由を味わう。 そうしてあらためて気づくのだ。 そこには愛がないことを、それも「愛される」愛がないことを・・・。 女性に愛される味わいというものには麻薬のように甘い誘惑を感じるものの、どうしても抵抗してしまう。 結果、冷たくて言葉が乱暴で気性の激しい人を知らず知らず好んでしまう。そうしてお決まりの散散な結末。 もっとまともな人と愛し合えば良いものを、何を好き好ん で・・・。 結果的に破壊的な方向に向かってしまう愛の遍歴。何度も何度も繰り返す読みたくない物語を読まされ演技させられている気分。実のところ全部自分自身のこころの問題なのであるけれど、どうしても幼児期に書いた人生の脚本どおりに流れてしまう。 たとえそれが破壊的で自分を幸福に導かないと分かっていても、何と言っても居心地が良いのだ。しかし心の底の深い憂鬱がトシを重ねてさらに深度を強めた・・・という事実は全く想定外であった。いわゆる心の「成熟」など全くしていなかったことに気付かされてさらに落ち込む。整理のできていない、解決の方法さえ見つかりそうにない混乱と閉塞感に満ちた「憂い」に身もだえするほど、身の置き所のないほどの「苦しみ」を感じる本年の春でございます。 (こうして筆を執っていられるのは少し回復した結果ではあるけれど、まとまりの無い思考の生み出す灰汁のような文章。乞うご容赦) ありがとうございました M田朋久 |