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■ くりぼっち | 2015. 1.10 |
クリスマスにひとりぼっち・・・でいることを指す言葉らしい。 今年もとりあえず「くりぼっち」であった。 特に寂しいとかわびしいとかの感覚はない。 誕生日が12月でクリスマスとか年末年始とか家族・親戚で集って飲食をすることなど好まないし、まして他の人と一緒に食事をするというのが大の苦手で自分の為のひと時は自分だけで過ごしたい・・・。 もともと誰かに何かを祝ってもらうというのが得意でないし、幼時より我が家ではそのようなお祝い事の習慣がなかった・・・ように思えるのはそのような写真が殆んど残っていることでも推測できる。 両親のソレは銀婚式のツーショットがあるくらいで、またその直後に父は急死したのでそのまま遺影のような按配になっている。 誕生日は両親に感謝する日であると考えている。 母親は産みの苦しみ、妊娠腹を抱えて10ヶ月、赤ちゃんを育て、学校に出し、しつけをし、大変な労力である。 自分が実際に子供を育てたわけではないけれど経済的に支えるという意味では結構な負担であるし、母親の苦労も並大抵ではなかろうと思える。 そんな背景を考えると自分が生まれた日が本当の意味でメデタイのか、さまざまの苦労の始まりなのか微妙に思える。 母方から見ると筆者は外孫ながら初孫で長男。 恐らく多くの人に祝ってもらい充分に愛されてきたという話も聞き、それらの幼児期の写真の豊富さを思うと感涙してしまうけれど、今さら60過ぎになって人に祝ってもらおうなどとは思わない。 ・・・けれども多くの人にとって誕生日という日が一年中で最も重大な特別な日であることについては何の異論もない。 易占的には誕生日とその時刻は一生涯背負う重大なナンバーになるのでこれが重大でなかろうはずがない。 それはさておきクリスマスはキリストの誕生日のことではないそうだ。 それは降臨した日とか諸説あるが、どうも冬至に関係した日を定めてあるらしい。 今年は12月22日が冬至で夜が最も長くなる日。 筆者はキリスト教徒でもなくクリスマスなどどうでも良いのであるが、世界中この冬至と少しズレ込んだ年末と正月休みとを併せた休暇をクリスマス休暇と称してお祝いをするようで、クリスマス近辺の季節を転換点とした陰の気から陽の気に静かに向かっているせいか何となく沈み込んでいた心もこれらの期日から少しずつ晴れてくるようだ。 何しろ日が長くなる。 そうしてクリスマスの当日は冬至(12月22日)が深月であるので三日月になる。 キンキンに冷え込んでしまった暗い冬空に三日月が厳かに浮かんでいるとキリストの降誕もこんな風に起こったのかもしれないなぁ・・・などと夢想してしまう。 そんなクリスマスはひとり静かに過ごし讃美歌を聞き、神仏にお祈りをする・・・というのが正統的な過ごし方なのではないかと思える。 以前にも記したように高級レストランとかホテルで二人きりのキャンドルディナーとかはわかい恋人たちのものでデコレーションケーキを切り分けて食べるのを楽しみにしている小さな子どもたちのいる若い家族に限ったものに違いない。 とは言えクリスマスを楽しんでいけないワケではない。 街を飾るクリスマスツリーのイルミネーションやジングルベルの音楽、クリスマスソングはそれなりにこの冬の暗い夜を明るく陽気にさせ、景気に良い影響を与える気がするし、女性の待つ夜の店やクラブが暇になって、それこそくりぼっちの初者〜中老の男が街をさまよい歩くのにはナカナカの風趣があるものである。 コートを羽織り、マフラーに首をうずめ、ポケットに手を入れて歩く喧噪の街路はますます味わい深い孤独感を深める。 そうして年の瀬の憂鬱をそれらが吸収してくれるような気がする。 ・・・そんなの関係ねえヨ・・・という態度で臨んで来たクリスマスもそのような行事やイベントが無くなるとやはり急に寂しい。 矛盾しているようであるがここは一念発起してそのようなクリスマスパーティーや催し事はそのような人を相手にする職業、特に幼稚園、保育園、日本以外の外国の学校や会社、お店、家庭には絶対的に必要なものなのかも知れない。 相変わらずクリスマス商戦という言葉もあるようで、昔ながらの百貨店や巨大ショッピングモールなどでは庶民の財布のお金を巻き上げようとあの手この手のアイデアを打ち出しくるが「くりぼっち」を気取る人々にとってそれらは殆どすべてひどく耳障りな雑音にしか聞こえないのではないかと思える。 ありがとうございました メリークリスマス・・・なんちゃって・・・ M田朋久 |