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■ 無縁墓 | 2014.10.14 |
NHKのクローズアップ現代で取り上げられた墓石の問題。 内容はやっぱり同局が亡国のメディアとの誹りを免れないものであった。 世界中の先進国、即ち経済的・文化的に豊かな生活と世界の標準からみれば高い位置にある国々でお墓参りの習慣を持たない国はないそうだ。 殊にアメリカ、ヨーロッパではこの傾向が強くユダヤ人の映画監督スティーブン・スピルバーグの「プライベートライアン」という戦争映画では導入部が家族全員による墓参りのシーンであり、同監督のアカデミー賞受賞映画の「シンドラーのリスト」ではエンドロールがやはり主人公のお墓への多くのユダヤ人の墓参シーンであった。ジーナ・ローランズの旦那さんでイケメンのギリシャ人ジョン・カサベテス監督映画「グロリア」も最後は感動の墓参りシーンで、それは何と見も知りもしないお墓へのものであった。 ギャング映画やヤクザ映画、普通のドラマでもこのおお墓参りのシーンはとても多い。 マフィアの大ボスが敬虔なカトリック教徒で、母親の命日に花束を携えて神妙に墓参するイタリア映画や似たようなシチュエーションの仏・独・伊の映画は数多い。 トミー・リー・ジョーンズ主演の「ダブル・ジョパーティー」という映画では米国南部ニューオリンズの商家の金蔵のように壮麗なお墓を舞台にしたアクションシーンが印象深い。沖縄のお墓も巨大と聞く。 人間の生と死と愛を描く文学作品や映画に小道具(?)としての墓石の意味は深い。 ・・・と思えるのにNHKの扱いがいかにもお墓など不要で、余計でその廃棄や処理に多額の費用を要する(これを墓じまいと称するらしい)自治体や社会にとってもお荷物で面倒なしきたりである・・・という風な内容で、日本人として誠にケシカラン、ゆゆしき論言であると思いこれを書いている。 件の番組では日本の大手保険会社の研究員なる女性が登場してお墓の2つの機能を述べられていた。 それは @お骨の収納場所 A生き残った人が死者と対峙する場所としての機能 ・・・となんと浅薄で殺伐とした見方であるか。 人間の存在としての哲学的、宗教的、霊的な考察が完全に抜け落ちているのみならず、少しも実証的でも現実的でもない暴論というより軽薄な論と思える。人間の真の幸福実現に霊的な問題を抜きにして語ることはできないのに・・・。 ついでに無神論者の宗教学者なる人物も出演していてこれに似たとても浅薄な持論を述べられていた。 別にあらためて書く価値もない内容なので割愛するけれど、この程度の論質で日本国や日本人を語られるのは、国民の一人として困るのである。 人間が伝統的に石や木に墓碑銘や死者の名前を刻み、書きつけ亡骸を埋めた土の上に建てそれを拝む、語りかけるという不思議な行動には多分もっと重い、多分に霊的な意味があって、堅牢な石になり時には古墳やピラミッドや慰霊塔などになったりするけれども、多く死者を悼むというばかりでない何かしら宇宙や天や霊など高い存在との通信やエンパワーに必要なのではないかと考えている。 それなのに「墓を持たない主義」とか家筋でなく地域でお骨を集めて植樹する・・・というような自治体の取り組みまで紹介されていた。 お墓、殊にお参りされることのない無縁墓は自治体から見ると取り扱い処理が大変な「粗大ゴミ」の感覚なのである。 確かにそういう側面があるとしてももう少し霊的な配慮があってしかるべきであろうと思える。 筆者は週に3日から4日お墓参りをする。 これは母の無言の遺言である。 筆者の少年時代、即ち小学校から高校まで荒れまくっていた「家」。 父親は酒乱、長男(筆者)は非行少年。 停学を繰り返し、シンナーを吸引し、無免許でオートバイに乗り待ちのチンピラと屯し、集い、小さな暴走族を形成しカツアゲと称する暴力行為による金銭の脅し取りやさまざまな悪行を重ね、実際に警察のお世話になる寸前までいったところ何事も研究熱心であった母親が一念発起して易や占いを学びそれらの結果としてこれは食生活の改善と信心(お墓参り、仏壇や神棚の整備)に着手したところみるみると「家」が元に戻り、思いのほか発展、繁栄しなんとかい人並みの生活ができるようになったのも母親の信心のお陰ではなかったのか・・・と今は確信しているのである。 当時(少年時代)には我が家ではなんとお墓参りの習慣が無く、そもそもお墓がどこにあるかも不明であったものを母が苦労して見つけてきた。 それは隣町の河川敷の傍の豚小屋と田んぼの先にある鬱蒼とした草むらに、それこそ朽ち果てかけた無縁墓のようにひっそりとうずくまってあった。 蛇の出現におびえながら結構大変な思いをしてお墓を掃除し、花や酒や水や線香をあげて参っているとだんだん家内が治まっていた。 それでも父は50歳で大酒の果てに早逝し、代替わりに筆者が開業し医院を建て替えようと目論んだときに「まず墓を建立せよ」との母の命令によって良い墓相になるように易暦の本を参考に墓地を手に入れ250万円も出して立派な墓石を2基と水子供養のお地蔵さんと同じ墓所内に整えたところ益々物事が順調にいくではないか。 そうして生前の母は何かしらトラブルがある度「墓参りしてないだろう」と繰り返していたのを思い出す。 考えてみると人間の存在の出現の現世における証拠というか痕跡はお墓以外にない。 それを写真や文書に置き換えて平気な人もいるがそれほど軽くて薄っぺらなものはアテにならない。 キリストやブッダだって偶像崇拝をご本人が嫌がっていたかも知れないが現実には教会があり寺院があり十字架があり仏像がある。 それを個人とか家とかのレベルで欲し保持することに何のためらいがいろうか。 むしろそれらを持つべきであると思える。 それは死者から生者への単なる伝導みたいなものではなく、人間として生きた証としての物質的痕跡としての意味だけでなく未来への希望をつなぐためのルーツの印として大地に刻印する霊的な通信の塔として・・・。 “私のお墓の前で泣かないでください♪♪” 先年ヒットした歌「千の風になって」の歌詞である。 その歌詞は愛する人を慰めるのに大いなる力を発揮したし、その歌詞の内容もそのとおりである・・・と思える。 ・・・けれども前記した詞の部分は逆説的表現なのではないかと思える。 「愛する人よ、どうぞお墓の前で存分にお泣きなさい、私たち(死者)はいつもあなたのそばにいてあなたを見守っていますよ」・・・と。 無縁墓こそキチンと供養しそれなりの処遇をしていくべきであろうし、ましてや家のある人々、家族のある人々、先祖のある(実際は先祖のない人は存在しない)人々はやはりしきたりに従ってお墓を持ちお墓参りをしていくべきであろう・・・と思う。なんと言っても同じ国で生活し人の為、家族の為、国の為に生きた同胞の墓なのである。無縁墓が粗大ごみ扱いなんて、周囲の反応として何とも冷え冷えとした所作ではないか。心を亡くした日本人。霊的に鈍感な日本人・・・。 だいたい、たとえば特攻で亡くなった英霊たちの「お骨」とかは実存しないわけであるから、それらを収納できないまでも、慰霊塔とか記念館とかお墓に代わる、何らかの現世の物質的で半永久的な「石物」が、絶対的に必要ではないか・・・。そうしてそれらは国民ひとりひとりの心の中に受け継がれ語り継がれる・・・そのための「オブジェ」として不可欠な存在なのである。 聞いた話では、海外で亡くなった日本人のお墓は、大使館でキチンと管理されていて、いつも綺麗にしているそうだ。これが英国あたりでは、世界中に広大な大植民地を擁していたのに自国民のお墓には全く頓着がなく荒れ放題で、それこそが大英帝国の没落の一大要因と言えるそうだ。また、刑務所で過ごす犯罪者の97%がお墓参りをしたことがない・・・というデータもあるそうだ。 以前、週刊誌に掲載された写真で、西武グループの総帥で瞬間的にフォーブズ誌で世界一の資産家とされた堤義明氏の墓陵を見たが、それはまるで古墳のように広大で、墓地の広さの数百倍が所有できるという説のとおり、当時日本一の不動産持ちとして自らの「王国」を見事に築いておられたのだ。お墓の威力ここにきわまれり・・・といった按配の証左ではないだろうか。 自分自身の人生の為に、子供たちの未来の為に、家や国家や世界の為に日本人も亡国メディアなどに騙されないで、皆さん、ちゃんとお墓を持ちましょう・・・。 ありがとうございました M田朋久 |