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■ 憂秋 | 2014.10. 8 |
本来は憂愁と書くべきところだがあえて表題として冠してみた。 秋はどうしてもすべての事柄,物事、景色が憂色に帯びる。 早い夕暮れに物悲しい犬の鳴き声などを聞くとさらにそれが深まる。 さだまさしのヒット曲に「道化師のソネット」というのがある。 「笑ってよ、君のため〜♪」なんて明るそうな歌だが、歌詞には人間の持つ悲しみ、孤独、またそれらを生きとし生ける者すべてが共に持っている・・・ということを伝える内容となっている。 大学時代に雀荘で聴いた荒井由美の「ひこうき雲」も秋になると何故か思い出す。 この歌は宮崎駿の近作アニメ「風立ちぬ」の表題曲になっている。 沢田知可子の「会いたい」も思い出す。 みんな人が死んでしまう歌だ。 そうしてそれらがどうも実話から紡ぎ出された歌であるらしいことがさらに悲しみの感情を深く実感させる。 愛する人を亡くしたことのない人は少なくない。 生きていれば何かしらの悲しみ、喪失の痛みを必ず経験するものだ。 そうして美しい人は男女共必ずこの憂いの翳がその顔や仕草、ことに目の表情に宿るものだ。 多くの悲しみや憂いを経験させられて人が美しくなっていくと思わせるかのように若く美しい女性には幼児期からの心の痛み、それも愛情問題にまつわるそれらのマイナスの感情をひきずっている人々がとても多い。 「自分は愛されなかったのではないか・・・」 そんな幼者にとっては生死に関わるほどの心の痛痕が人をして深い憂色をたたえた美貌にしていくかのようだ。 これらの理屈は幼時から少年・少女時代にそれほど美しくなかった人が年を重ねるごとに否応なく経験させられた数々の悲哀体験がその容姿に少しずつ刻まれていって何かしら謎めいた憂愁をその容貌に表し、さらにその美を深みのあるものにするような気がする。 美しい笑顔の人は必ず深い悲しみをその生い立ちや経験に抱いている人が多いそうだ。 彼岸花にもコスモスにも黄紅色に色づく気の葉や濃緑色の山々の陰影が青味を増し、とんがった濃紺色に切り立った時、秋から冬へ移っていくいくらか死の匂いをたたえた悲谷の頃になっていく。 個人的な心象かも知れないが晩秋の雨はそんな人間の悲しみに同調した神様の涙に思える。 「人は涙と共に成長する」 「人は悲しみと共に美しくなる」 確かにそうかも知れない。 そういう人が明るく振る舞い笑顔でいることが美しいのであって中国の故事にあるように絶世の美女が憂い顔を見せて、それに夢中になった王様を見て多くの女性が憂い顔をしてみせてとても醜悪になってしまった・・・なんて話もあるように、意識して演技で作り出せるほどカンタンな「顔」ではない。 易学的には母性(陰)は悲しみそのもので、母は子供が結婚したといっては悲しみ、出産したといっては悲しみ、出世したといっては悲しみと子供のイベントすべてに悲しみを持つものだそうである。つまり悪しきことも良きことも、母にとっては悲しみ憂いの対象となるのである。 愛しむ(かなしむ)と呼ぶそうで、愛の極みは悲しみで仏教用語でも愛は慈悲とよぶ。 ・・・とすれば愛とは人の悲しみに寄りそうことでもあるようだ。 もともと悲しみのない恋愛ドラマはないし、人間の持つ物語には悲しみがつきものである。 かくして人生の物語にはさだまさしの歌ではないがさまざまの悲しみに彩られ染められていく。 美は善であり、善は美である・・・とすれば人間の悲しみも先述した論からすれば何かしら善なるものなのかも知れない。 晴れわたった秋空を見ながらボンヤリと考えてみたことつれづれに書きつづってみた。 ありがとうございました M田朋久 |