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■ 彼岸花 | 2014. 9.26 |
同名の小津安二郎の映画を思い出す。 不思議なことに小津映画のタイトルには「秋」を含んだ作品が多い。 「秋刀魚の味」「麦秋」「秋日和」など・・・。 同監督の代表作は「東京物語」であるが、これも何となく秋臭い。 小津は60歳で自らの誕生日に没している。 作品と同じように自分自身も宴席での飲酒や喫煙をしていたならば彼の体質であれば長命ではあるまい・・・と勝手に分析している。 路傍に咲く彼岸花は思いがけない程唐突に、そして思いがけない場所にその奇妙なほど鮮やかに紅色の花を咲かせる・・・。 その名のとおりの彼岸に合わせたように。 彼岸花には悲しい思い出があって、それをチラリとでも見てしまうとしばらく心の動揺を抑えるのに少しく苦労することがある。 お彼岸の入りには「その人」の夢をまるでそのまま生き返ってそれなりに年を取って・・・みたいにリアルに夢に現れて喪失の痛みを再現させられ、これは何かしら霊的なメッセージであろうと考えて早速翌日の午後にお墓参りをした。 立花隆という人の「臨死体験」という代表作品があって巷でも有名であるけれど、その研究者であるレイモンド・ムーディーとの対談がNHKの特番で放映されていた。 立花氏も癌を患い、再び死について考えるようになったのか、それが他人事でなく自分のこととして捉えられる心境になって、はたまた件のムーディー氏も自らの臨死体験を通じて霊魂の不滅、死後の世界の存在を確信するようになられたそうであった。 臨死体験、即ち死にかけた人が見る神秘的な体験が皆似通っていて、それは素晴らしい愛の世界、光の世界で「何も恐れることは無い」「アナタも素晴らしい愛に包まれている」「神に遭った」・・・みたいなイリュージョンが脳で再現されるだけであると脳科学的には言えるそうである・・・という主張を立花氏はされていたワケであるけれど、よくよく考えてみるとそのような神秘的な体験を「死に際」に脳が味わえる仕組みが出来ているということがまさに神秘そのものである・・・と筆者は考える。 つまり人間が自らの意思で思量してその神秘的な体験をするのではなく、自然に普遍的に「させられている」ということが死後の世界、神の存在、霊魂の不滅を「信じさせられる」のだ。 この考えに何か矛盾があるだろうか。 神秘体験は大脳辺縁系の創り出した幻想であったとしても、その辺縁系なるものは誰が何の目的で創造したのであろうか。 すべての人間は霊的な存在であり、霊的に守られて生を得ているのだ。 お彼岸もご先祖の霊が「帰ってくる」という仏教的な言い伝えも確かに何の根拠もないけれど・・・。 世の中には偶然はないと言われている「理屈」と同じように死にまつわる人間の割と定型的で不思議な体験もその普遍性において疑いようもなく神の実存、霊魂の不滅を信じさせるに足る証拠と思えるがいかがであろうか。 ありがとうございました M田朋久 |