コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ ・んだば2014. 9.10

とうとうアイウエオ順のタイトル最終稿「ん」になった。
コツコツ、一歩一歩つづければ必ず到着するものなのだ。
あらためて実感した。

さて表題は北海道の方言だそうで「それでは、さようなら」という意味もあるらしいので或る意味このシリーズの最後にふさわしいと思える。

他義には「とりあえず」とか「それならば」とか会話のはじめに冠される言葉で割と繁用されているようだ。

・・・んだば近況を少し記してみたい。
知人の色恋沙汰で相談を受け、相当に悩ましかった時期があったのであろうけれど、一応落着はしてはいるものの、当事者としては心穏やかな筈はなく、傍から見ていると結末としては悲劇的でもあり喜劇的でもあった。
所詮他人事なので筆者としては心に何の痛痒も感じないのであるけれどどれだけの失望、喪失感、痛み、寂寥、孤独感など心の痛みについて当人たちは語られないけれども相当の煩悶懊悩があったのではないかと推察される。

そもそも恋というものは苦しいものなのだ。
それは禁断の楽園でアダムとイブの寓話にもあるように失楽園というのが恋の本態で深みに入れば入るほど楽園と地獄が交互に訪れる実にオソロシイものなのである。
結構深い火傷を負ってしまって“もう二度と恋などしない〜♪”なんて感じで色恋に恐れを抱いてしまってそれを封印してしまわれる方もおられて、これまたモッタイナイというかまさしく人生の悲劇そのものである。

もともと恋愛体質の人というのは男女ともその喜び即ち楽園としての認識が地獄の業火に焼き尽くされるというか或る特定の人に恋い焦がれるというかそのような状態に身を置くことは“快楽”と捉える傾きがあって全く懲りずに色恋に突き進んで行って人生全体に多彩な陰影と起伏と色どりを与えていて、終わってみれば「楽しそうやなぁ」なんていう結果になるのであるけれど・・・。
時にはストーカーまがいの行為や失恋の果ての自殺や最近はメッキリ減ってしまったが心中と言ったような結末に至ることもママあるようだ。

恋愛も分解すると分かりやすい。
恋はどちらかというと欲望であり本能である、
欲は与苦、即ち苦しみのもとである。
したがって恋には心の苦しみが付き物である。
モチロン快楽もあるけれど・・・。
嫉妬心とか独占欲がこれに拍車をかける。
相手との恋心の温度差にも苦しめられる。
つまり自分の恋心や欲望の強さより相手のそれが劣っていると心淋しいのだ。
全き平衡的相思相愛というのは多くはないので、多くの人の強い恋心は苦しみそのものであると思える。

愛は違う。
それも純愛には嫉妬の苦しみ、独占欲、支配欲による苦しみはない。
本当の愛は相手をゆるし、解き放ち、自由にさせ、一定の距離を保たせ深いやすらぎと平穏で落ち着いた心の静寂をもたらす。
少し悲しみにも似た慈愛に近いが真の純愛にはそれらの苦しみ、心の痛みというものは無い・・・筈である。

それで恋愛といった場合、結婚とか不倫とかとにかく社会性とか世間体とか倫理道徳といった“不純”なものが少しでも混じると少しも楽しくなくなってきてドロドロとしてくる。
このあたりの心の整理というか得心というかものが無いと男女の愛がオソロシク陳腐で退屈で低俗になるけれど当事者も周囲も多くそれに気づかない。

純愛というものが世間の常識や普通の道徳観や倫理観によって汚されている・・・などとは考えないのだ。まるで真逆の価値観で愛を不当に貶めて平気で大きな矛盾に満ちた論を述べ立てるエセ道徳家もいたりして本当にヤヤコシイ。
本当の恋愛においては世間的な倫理道徳や一般常識は逆に悪徳、不徳、不純になるのである。
このことは多くの文学や芸術で繰り返し語られるが、ナカナカ理解されない。
そうして普通は本当に愛し合った男女、つまり深い恋愛関係にある男女を不道徳者にしてしまうが本当はそれらについて思いを馳せる、馳せさせる、周囲の声こそ不道徳なのである・・・と考えている。

かくして美しい恋愛は一部の精神的な自由人にのみ許された贅沢になってしまった感があるけれど、美しくない恋愛がよろしくないというワケではない。
それはそれで人生の勉強、人間心理の勉強、社会の勉強には普遍的でとても良い教材なのである。

男女の間のさまざまな営みによって人類が発展し永続しているのは事実であり、またさまざまな争いや揉め事、トラブルの元になり得る。
成功する男には女の力が必ず要るものなのだ。
ヒトラーを成功者と呼ぶには強いためらいがあるけれど、自分の願望・欲望を実現した人物としての側面は確かにあるワケで、その傍らにゲリ・ラウバルとエバ・ブラウンという二人の女性が直列的に存在したことは有名な話であるし、イタリアのベニート・ムッソリーニにもクラレッタという愛人がいた。
日本の東条英機も良き家庭人であり家族愛のカタマリのような人であったと聞くので、或る意味家庭(女性)の精神的エネルギーをキチンと得ていたのであるし、同年の山本五十六にも多くの愛人がいて、一人は囲っていたそうである。
当時は今のように女性問題によるスキャンダルは軍神とも呼ばれるほどの国民的人気者であった五十六の評価・評判を少しも棄損することはなかったようで、のどかな時代であったようだ。

「英雄色を好む」

男が何かしらの偉業、もしくは普通のレベルの事業をする上でも女性の愛が絶対的に必要で、それが配偶者か愛人かはたまた不特定多数の女性、大衆の人気であっても形式やカタチはさまざまでも一様に本能的にソレ(女性の愛)を欲するのは自然の摂理ではないかと思える。
色恋の話しが最後になったのは五十音順も「あいうえお・・・」順は「いろはにほへと・・・」順とある。
「いろは歌」というのがあって「色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」
筆者にとっての色は即ち色欲であり恋である。
そのような視点であらためてこの歌を詠むと「匂い立つような色気(性欲、色香、容色)もいつかは散ってしまう。
この世で誰が不変でいられよう、はかない夢(色恋)を見たり酔いにふけったりするまい」となっているが、この歌は「・・・だからこそ色を楽しもうじゃないか・・・」なんてひとつの逆説として捉えている。
・・・んだば・・・

ありがとうございました
M田朋久



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