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■ War(戦争) | 2014. 9. 4 |
相変わらず世界中のあちこちで人間たちは戦争をしている。 “紛争”と呼ぶこともあるが同じことだ。 また世界中の国々は戦争の道具、即ち人殺しの為の機器、人工物の破壊を目的とした精巧で高価な機械の開発や保持に余念がない。 特に先進国でこれが顕著で、核兵器などというオソロシク物騒で曲々しい武器を日本国以外の先進国及びそれに追随する新興国はこの武器を持っているとのことだ。 自分たち(先進国、大国)が「核」を保持しているのに核不拡散防止条約だとかIAEA(International Atomic Energy Agency、国際原子力機関)という約束事とか組織があって、核の平和利用とか核兵器の「これ以上」の増加を防止しようという意図を持って存しているけれど現時点で適正に機能しているワケではなさそうだ。 そもそも前者(防止条約)については預託国がアメリカ・ロシア・イギリスと3国だけで、それらの国はいずれも核兵器を保有しており矛盾している。 たとえるなら銃を持っている男3人が他の人々にそれを持たせないと強要しているような感じで、それ(拳銃)を持ちたいと望む人間にとってみたら「承服しかねる」というのももっともだと思える。 いずれにしても武器、兵器というものが人間同士の争いの道具であり人や物を破壊する「殺人の道具」であることを自分たちは明々と理解しているのであろうか。 それらが国際的な武力(パワー)の緩衝役(バランサー)となっていることも否めない事実ではあるけれども人類がこれだけ高度に発展しているのに原始時代に猛獣に追いかけまわされている時代と少しも変わらず、それぞれ国や国民や政府は隣国の侵略に脅え、また脅かされている現実があり、さらにまた内戦と呼ぶ自国民同士の人種や価値観や宗教上の対立によって起こる凄惨な殺し合いである。 驚くべき事態である。 サッカーの試合や大嵐(ハリケーン)でも暴動や略奪が起こる国もあったりして気が狂っているのではないかと思える事件も多々あり、そういう意味では警察官の武器の保持と同じく国家にも武力や兵器が一定以上必要なのかも知れない。 以前から述べているように人間の歴史は闘いの歴史であり、人間の脳にも人を攻撃したりやっつけたりすることに快感を覚えるようにできており、多くのスポーツやギャンブルや映画やゲームがそれらの解消に役立っているという説もあったりして本当に人間というものはヤヤコシイ。 一見落ち着いてみえる先進国ですら増大する貧富の格差とかEUとロシアの対立とか日中韓の対立とかさらに中東、アフリカ、南米にいたってはオイルマネー、鉱物資源の争奪戦、違法薬物の取引など世界中国際関係における紛争の種はまるで無尽蔵のようだ。 平和の中にドップリとつかっている日本にいてもメディアから流れてくる情報はそれらの争いごとの類が多い。 みんな戦争が大好きなのだ。 それが他人事ならもっと・・・。 みんなスポーツが大好きと同じように・・・。 後者は自国が携わっていると尚更面白い。 テレビのドキュメント番組の多くが戦争であり犯罪である。 幼児から少年少女時代に戦争の悲惨な体験をされた方がもう70代、80代の高齢者だ。 それらの人々が診察中に思わずもらされる戦争体験の個人的な心象を語られると一瞬で抑うつ症状が取れて晴れ晴れとなられることがある。 数十年も胸に秘めつづけた辛い体験というものが心を重く曇らせていたことにフッと気づかれる。 これらは涙なしには聞けない話ばかりである。 映画「永遠のゼロ」のように・・・。 過去の辛い体験としての戦争は心に深い刻印を残すようで、それは通常現状生活におけるトラウマとは趣きが幾分異なっていて、それは同時代を生きたすべての人がみんな同じように受けていた心の傷で、自分より非道い人もいたりして自己憐憫とか自己中心的なものは少しもなく「仕方がなかった」というという信念に裏打ちされた一種の「悟り」の開示のようにも見える或る意味神々しい何かがある・・・ように思える。 先の世界大戦の傷跡はスッカリ日本から消え去られて未曽有の繁栄を謳歌しているようでいて心の中にはいまだにその傷痕はクッキリと残されているように思える。 ・・・それを直接に体験した一部の人々の心の中に・・・。 平和の希求と戦争。 援助と侵略。 似て非なるものに見えて心理的には同根であるらしい。 人間が本当はいったい何を求めているのかとあらためて大胆に問いかけてみた時にどれだけの人が自信をもって即答、明答できるであろうか。 この問いに解答できなければ人間の戦争への欲望と習慣化は消滅しないのではないだろうか。 自己の利益の追求、自国の利益、家族愛、競争心、憎悪、復讐心、人を思いどおりにしたい欲求、自暴自棄、被害者意識、攻撃欲、権力志向、支配欲、プライド、自己愛・・・などさまざまな人間の欲求、怨嗟や焦慮の結末として戦争が始まるのであるならまたどんな頭の良い冷静な人にも止めようがない民衆大衆の扇情的で発作的、衝動的な民意で始まるとするなら今の先進国の国家間の軽い緊張状態はとても平和な状態なのかも知れない。 まさに危機的状況であるからこそ安全である・・・と言った奇妙な国際関係が現在の「平和の構造」なのではないだろうか。 ・・・であれば核も兵器もマスコミ報道も平和を創造しているのかも知れない。 ただし戦争をビジネスにしている一部の人々にとってはいくらでも操作できる緊張状態であるので、これらの人々が何を考えているのかにも注意を払わなければならないだろう。 大きな戦争にも小さな戦争にも必ず大きな得をする人々がいるものであるらしい。 ありがとうございました M田朋久 |