コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ レベル2014. 8.14

こういう表現はあまり好きではないけれど、どうしてもレベルという言葉を使ってしか語れない場面が多々あり、少しくこの言葉にまつわる諸々のエピソード問題について記してみたい。

大昔から人間の原始社会から現代の成熟したと勘違いされている社会の中では身分や経済、生活、精神、知能、学歴、病気、健康、地震、災害などでレベルという言葉を使って或る程度正分していくのは悪いことではないと思える。
今は公平とか平等とか人権とかの問題があって、特に教育の現場では「差別」という言葉と混同されて何かしら「よろしくない」感覚を持たれておられる方も多いかもしれないが、ここは我慢して読んでいただければありがたい。

個人的にはレベルというと精神のそれを最も重視していて常に自らの精神のレベルを監視しフィードバック、制御し、ある一定レベルを保つようにしている・・・けれどもそれ程うまくいっているワケではない。
正直に言うとモノスゴ〜ク幼稚で低レベルにある時の方が多いように思える。
あらためて自分を客観視すればするほど・・・。

精神のレベルはできるだけ高尚・高潔・高邁に維持している方が人間のレベル即ち組織、社会、家庭など所謂「人間関係」についてのトラブルから自由でいられる・・・筈である。
少なくとも心理的にとても楽・・・と思える。

時間的・空間的(宇宙的)に多くの人間の地球のうえでの限られた営みを遠景してみても宇宙の始まりから遠い未来を想像してみても歴史に記憶されるような大きな影響力を持った人ですら終わってみれば墓石にわずか数センチだけ刻まれるほどのはかなさである。
このような視座で物事のすべてに対するとどんなに重大に見える事柄もどこかしら「大したことではない」感じがしてくるし、実際に「大したことではなかった」ことも多い。
ましてや日常の些細な人間関係の悩みなどどうでも良くなってくるが、若い時の特別な人間関係、即ち男女の恋愛関係などには神様も他のそれらとは一画される或る種の妙なる「苦しみ」を与えてくださっているようで結構悩ましい。

一方、精神的に低いレベルから言うと近々起こった2つの殺人事件を例に書き進めてみたい。
ひとつは女性4人によるマンションリンチ殺人事件。
特に理由のない怒りと衝動によって不潔で自堕落な生活を送っていた彼女たちは、どちらかというと純朴な一人の女性をその歯牙に賭け無残にも殺してしまったもので、このメンバーの一人のドキュメントを読むと誠に短絡的、刹那的、動物的生き方を強いられたか、して来たかいずれにしても教育、知性、精神、心、魂のレベルが極めて低い。
これらの人々は被害者意識が強く攻撃的で激情に駆られると衝動的に暴力、自傷、自殺に走る傾向があり、アルコールや脱法ハーブや覚せい剤などの違法薬物でこれが増幅されるようだ。

もうひとつの事件は前記とは逆に父親が弁護士で経営者、母親も東大出の教育委員会経験ある長崎県でも有名な、知名大で裕福な家族に生まれキチンと教育も受けている筈なのに何とも人間性のカケラもない残虐な殺人をやってのけた16才女子高生もいたりして実際の統計上ではこのような荒々しい犯罪はドンドン減少しているそうだが件の女子高生は所謂サイコパス(人格異常)と呼ばれる例でハッキリ言って「脳の病気」と考えて良い。
その特徴は無慈悲、罪悪感の薄さ、残忍さ、冷酷、無感情、自己中心性など反社会性の極めて強い人格特徴を持つ人々が数%は世の中にいるらしい。
これらの人々への対応はモチロン教育とか子育てとか躾とかの問題ではなく治療と隔離であると思える。
決して一般に通用する良識・常識、キレイゴトで済まさないことである。
残念ながら一般的に言う「人間扱い」をしてはイケナイのである。

以上のようにレベルという意識を持っておくことが個人としても社会としても有益であるように思える。
平等とか公平とか差別なしとかある程度いい加減にしておかないと大問題の発生母地になるような気がする。
基本的には人間は皆平等な「存在」である・・・けれども存在のあり方については(?)なのではないか。
純粋な対等というのも普通人間関係においてはあり得ない。
何らかの上下関係が生じる。
それは社長と社員、教師と生徒、医師と患者、親と子、兄と弟などなど対等に接することの難しい関係だらけである。
そもそもあまりにも対等を意識しすぎると対立を生む。
これは国際関係などでは顕著で、本来対等であり得べき国と国の外交交渉などは力関係(たとえば軍事力、経済力、資源の多さ、人口の多さなど)によって微妙にバランスされず紛争の源となったりする。
日本の場合、国際的にはアピール不足とか自衛隊を軍事力と呼ばない奥ゆかしさとかは美しいものとしても国際関係におけるパワーバランスについてはドンドンその存在感、影響力において落下しつづけているように思える。

一方、日本の文化についての世界の認識は高まっているようにも見えるが、これは一部の日本人の思い過ごしであろうと思える。
「本当の日本を知らない」外国人にとって極東の小さな島国など関心の対象にすらならないと言えるらしい。

このように国にも品格とかレベルがあるし、それは時に経済力、教育力の結果として反映されることもあるが総じて一致しない。
つまりその国の民度というものが国のレベルになることもあるし、その国の元首そのままに投影されることもあったりして、こと精神的なレベルについては霊的なレベルと同じようにその国家の未来を決定づけていくのは確かであるらしい。
特殊な例を除いて我が国では初等教育即ち義務教育については世界でも相当優良であるようであるが、高等教育や大学については世界のレベルではかなり低レベルになっているようだ。
それらは殆んどアメリカ、イギリスの大学即ちハーバード、MIT,スタンフォードあるいはオックスブリッジになり、それにつづくのは中国、韓国、シンガポールであるようだ。
国政のレベルではこれらの高等教育についての認識や危機感の低さとあいまった大学そのものの陳腐化もあったりして国家全体におけるさまざまなレベル低下が一部の知識人によって嘆かれているようだ。

皮肉なことに最も教育を重視したかつての日本国も初等教育においては寺子屋や藩校の伝統が受け継がれて民度や国民のモラルの高さとして残っているが、高等教育において外国に学ぼうとする姿勢を忘れ、いつのまに傲慢になってしまったのか外国留学を目指す学生の数はかなり減少してしまってそれは中国人、韓国人にとって代わられているとのことだ。

「このままでいい」

これが今や日本人の多くの若者の本心であるらしい。
ハングリー精神とか進取の気質、好奇心の減退というかとにかく精神的にも肉体的にもエネルギーがかなり減弱しているようである。
人間のレベルに限っても
第1等 世界に貢献する
第2等 国家に貢献する
第3等 地域に貢献する
第4等 会社に貢献する(これは社会貢献になる)
第5等 家族に貢献する(これも結果的に社会貢献となることがある)
第6等 自分に貢献する(人に迷惑をかけないこと)
第7等 人や社会にお世話になり、何の見返りも与えない
第8等 ただ生きているだけ
第9等 人や社会害悪を与える
第10等 意味のない傍迷惑な自死
上記、第6等以下は順逆があると思えるが結論として個人と社会との関係性としてプラスなのかマイナスなのか・・・という問題で社会にプラスを多く与えた人が偉大な人でマイナスを多く与えた人が極悪人ということになるがよく考えてみるとプラスとマイナスが入り組んでいて複雑に相殺され何が何だかわからないレベルの人もいるようだ。
このような大胆なレベル分けも実に単純な視点で、それは個人と社会の関係性の理解とその実践というものである。

いくらか乱暴な物言いであるが一度よく考えておいて損はないと思える。
少なくとも社会や周囲の人に少しでもプラスを与えようという態度や生き方がその個人にとっても有益でない筈がない。
まさに教育の目的というものがこのような性質のものである・・・ことは明治天皇のお言葉とされる教育勅語にはキチンと謳ってある。

いずれにしても、ごく個人のレベルで、人間というものはどうしても同じのレベル同士で集い合う傾向があるので、自分の周囲を見まわしてこのレベルかあ、、、なんて慨嘆してしまうようであれば、まずは一度自分のレベルについて検討してみるべきかも知れない。

ありがとうございました
M田朋久



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