コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 豊かな人生2014. 7.12

一般的には上記のような表題であると経済的に豊かで、多くに人に愛され、家族に囲まれて、長寿で、健康で、平穏無事に生きてきた人生を「豊かな人生」と呼ぶのであろう。
社員の「物心両面にわたる豊かさ」とお題目のように理念に掲げる会社も数多くみられるが、これはやや抽象的に過ぎると思える。
そもそも物質的豊かさと精神的豊かさは並列的ではないように思える。
真の意味での豊かさに物質的豊かさは必要不可欠ではない。
一般には経済的豊かさ即ち物質的豊かさが心の貧しさ卑しさを生むことだって山のようにあるのだ。
逆に「衣食足って礼節を知る」とか「貧すれば鈍する」なんてこともあるので、人間も経済的に追い詰められると礼節も地に落ち、頭脳の明晰さも衰えて簡単に悪事やらに手を出してバカだったなぁなんてことが世間にはママあるようだ。
悪事や犯罪が結果的に割に合わないと分かっている筈なのに、それこそ「懲りない面々」たちの跋扈が後を絶たない。

モチロン豊かな人生に悪事は無い。
人生も突き詰めて考えれば全部「自分の捲いた種」の結果であるので、そのような結果を生みだす行動やふるまい、態度、物腰、表情、言動、またその根底にある心構え、考え方など「心の問題」が人生のすべてに深くて広くて大きい影響を与えない筈がない。

物質的豊かさというとすぐに富の多さに目が行き、豊かな人生の前提に必要欠くべからざる絶対要件のように考えておられる方が多くいて、あたかも富の巨さと豊かさが正比例するように思えるが筆者の個人的で限定的で僅かな経験や書物や映画からの知識、情報からだけでも「そういうことはない」ような気がする。

筆者の親族にも少なくとも数十億〜数百億の富を蓄えている人々が数人いるが、少なくともその富を目いっぱい楽しんでいる風でもなく、また有効有益に使って人生の喜びを充分満喫している風でもなく、どちらかというと自分の会社の売り上げや社会の情勢や財産の管理や相続やら、自ら築き上げた富そのものに振り回されて少しも心の安寧を得られていないように見える。
それでも困窮貧窮しているワケではないし、物質的な豊かさは享受しているのであるから金銭についての悩みから解放されているのかも知れない・・・。
そのようには見えないけれど・・・。

「豊かな人生」というといつもマザー・テレサを思い起こす。
持ち物と言えばインド人女性の定番衣装であるサリーを二枚と水を汲む小さなバケツ1個だそうで、個人銀行口座に大金を有しているワケでもなく豪邸や高級車やプラチナカードや高級レストランの常連でも多くのセレブたちの集うメンバーでもないのにそれらの人々よりも世界的に有名であり多くの人々に愛され、多くの人々に愛を与え、それを説き、神に祈り単純に清貧に生きて世界中から惜しまれながらこの世の人生を終えた。
この偉大な人の人生を豊かでない人生と呼ぶことは誰もできまい。

物質的に「何も持たない」ことが豊かさを生み出すという説はキリストや釈迦の教えと同じものであるし、それを体現した者としての意義は大きいのに多くの人がソレに着目をしない。

相変わらず多くの人は富を求めてあくせくと動きまわり、安心の為に富を蓄えることを善とし富める者たちを敬いさえする。
考えてみればオカシナ世の中である。
世の中の価値基準が金銭や富になってしまった。
これで本当に豊かな社会と言えるのであろうか。

新自由主義を提唱するミルトン・フリードマンを批判しているカナダ生まれの批評家ナオミ・クラインの金融バブルを振り返った言葉で『・・・好景気の中、労働者の権利は踏みにじられました。景気がいいと資本主義システムはあまり批判されません。特に豊かな国では。そして10年後の今、豊かな国など地球のどこにもありません。ただ豊かな人々がいるだけです。民衆の富と自然資源を搾取して肥え太った人々だけが。』
アメリカでは1%の超富裕層が国全体の富の40%を所有しているそうである。
物凄い富の偏在である。

昔の日本のお金持ちは分限者と呼ばれた。
限度や限りを分け持っている意味であるけれど地方の篤志家として分限を知る者として貧しい人々に少なくとも「分け与えよう」とはしていたのである。
今でも世界の大金持ちはそれに似た活動をしておられるが何せ金額、富のレベルが違う。
富や名声や地位を得てはじめて「豊かな人生」と仮定するなら庶民の人生はあまりにも悲しい。

筆者の考える豊かな人生とは、ほどほどのお金と少ないけれど心から愛する人、愛してくれる人に囲まれて毎日の生活に感謝を捧げ少しでもいいから世の中の為に役に立って心安らかに生きていければそれだけで「豊かな人生」と呼べると考えているし、大方の一般の人の人生も多分そうであろうし、巨万の富を所有している人々でもごくごく個人的には上記のような心模様なのではないだろうか。

実際に莫大な富と権力を得た人々の末路がいかなるものであるか多く歴史書でそれを辿ってみればどちらかというと決して心豊かで幸福でもなかったように書かれている。

ロシアの量子物理学者で今は作家のヴァジム・ゼランドの「振り子の法則」に従えばあまりにも大きな振幅、即ち巨大すぎる富、華やかすぎる名声、高過ぎる地位は「地に落ちる」運命にある・・・そうだ。
何事もほどほど。
豊かさなど目指さないことが物心両面の本当の豊かさなのではないだろうか。
「愛で空腹は満たされない」という人がいるが、そんなことはない。
人間の社会では「真の愛は富に変換される」のだ。
ただこの理屈が心の底から腑に落ちていないと現実化しないようだ。
少なくとも困ることはない・・・筈なのだけれど・・・。

ありがとうございました
M田朋久



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