コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 問題解決2014. 6.27

人生を普通に平々凡々をめざして大過なく生きていても、誰にでもその年令や時宜に応じて問題というものが起きてくる。
それは事の大小や深浅を問わずである。
一般的にはその個人の歴史にとっても問題が大した問題ではなかったということに後になって気づくのである。
けれどその直面している時点では、その問題を解決したいと強く願うのもまた人間の通常の性向である。
しかしまたその問題解決への強い願望がその問題自体を逆に大きくしてしまうことが多いことも知っておきたい心理である。
「問題にしない」ということが「問題である」という風に世間では捉えられる傾きが最近特に強くなっているけれど、個人の感覚、感性、思考の方向性としては問題を「問題にしない」という選択肢も問題について客観的になる、冷静な判断をするという立場を保つ為に有益であろうと思える。

多くの問題、言いかえれば悩み事もその時点では大変重大で深刻な事柄に思えても、後になって考えてみると全く問題にならない大したことではなかったことに気づくものである。
幼児期とか小学校低学年の時の死んでしまう程の問題や悩みも大人になって振り返れば「辛かったなぁ」とは記憶されていたとしても元々問題ではなかったということが多いものだ。

時々は陰湿で執拗ないじめに遭って、それが重いトラウマになり成人となってからも恨み憎しみが消えず、深刻な心の病気の発症要因になったりすることがママある。
けれど、時にはそれをしっかりと克服してその経験を学びとして成功された方も稀にあるようだ。
トラウマについては「いじめ」や「レイプ」、ドメスティックバイオレンス、親の離婚などしっかりと心に刻印されるような深刻なものもあって、人間の記憶というものが何かしらヤヤコシイ問題もあるが一方では時間の経過によって辛い体験が良い思い出になるという心の作用もあるらしく、この問題についての考え方はまだまだ検討の余地がかなり多くあるような気がする。

いじめと言えば以前大阪市の副市長をされていた大平光代という人の経歴は興味深い。
いじめ→暴走族→暴力団の女→ホステスという、どちらかというと人生のマイナス方向へのズレが或る救済者によって司法書士→弁護士→副市長という社会的には明るい方向への転身は多くの人の救いになるような希望的人生の見本となるような物語であるけれど、そうそうそのようなサクセスストーリーは奇跡的なケースと言わざるを得ない。
上記にあるような話は問題解決という表現に合わないけれど流れとしては書き置いてみた。

先日も録画しておいた「総合診療医G」という番組と「マイケル・サンデル白熱教室・・・日中韓の未来を考えてみよう」を観てみた。
これらのタイトルは個人的にはとても嫌なのであるけれど、とにかく「勉強」の為にイヤイヤ観てみたところ、これが大変に有益な内容であった。

筆者も医者のハシクレであるから医療情報についてのテレビ番組はイヤイヤでもチェックしているのであるが、確かに「G」は面白い。
色々な症状、問診や検査データから診断を導き出すことを若い研修医を前に上手に誘導していくワケであるけれど、これこそ医者というものの仕事の本質的作業なので、医療の現場で働く者にとって有益でない筈がない。
多少、素人向けとは言い難いので一般のテレビ放送で流すのはどうかと思うが、それは豊かな基礎知識がなければ誤解を招くことがあるのではないかということと、それ程一般的ではないメズラシイ病気の診断過程であるので、所謂「家庭の医学」としては不適であると思えるからだ。
そもそも「家庭の医学」という書物も一家に一冊あったとして、それを使ってノイローゼみたいになった方を多く診ているし、筆者自身の症状についてすらそのような書物やインターネットで調べたり手持ちの医学書で調べたりしないのに、一般の医学知識や思考回路の貧弱な人の浅薄な思い込みを煽るような気がして、このような番組の放送には疑問を感じる。
とにかく個人の勉強には有益であり、充分役に立つものであったけれどごく素人的に観ると心配性がつのるようで、イヤな感じであったし教え導くドクターも何だか偉そうで演技過剰で、同じ職業の者として恥ずかしい気がした。

「それでも我慢して観る」

という観点で「マイケル・サンデル・・・」を観たところ、これがとても感動した。
日本、中国、韓国の若い大学生の男女6人ずつの討論会で、司会をサンデル氏が演じるスタイルで何だか喧嘩になりそうなタイトルで話し合いをするという内容で恐る恐る視聴したのである。
あにはからんや。
サンデル氏の問いかけと巧みな司会進行とで学生たちは時に考え込み、戸惑い、感動し、激しい感情でののしり合う・・・というようなことが少しもなく、おだやかで心温まる美しい愛のある結論というかまとめに至り、討論が終わってから、日中韓の学生たちがお互いに尊敬し合い親しみ合う姿を見た時には思わず感涙してしまった。
民放で時々やっている討論番組ではいつも嫌な気分にさせられるのであるが、それは、いい年をした専門家と素人のオジサンおばさん達が持論をぶつけあって口角に泡や唾液を浮かべて(実際は見えないけれど・・)自己正当化的、自己陶酔的に感情を高ぶらせ激論しているのと随分趣きが違う。

一方、若く頭のいい大学生たちの冷静で正直で真摯な議論を通じて得られた何かしら「よきもの」とは何かと考えたときに、やはり人間をつきつめていくと、本当はお互いに同胞(人類)として「愛し合いたい」のではないか・・・。
なんていう素朴な感慨を持った。

ハーバード大学の哲学、倫理学、政治哲学の教授であるマイケル・サンデルと言いう人物はひょっとして平和の使者・伝道師なのではないかと瞬間的に思ったくらいであった。

「総合診療医G」も「マイケル・サンデル」も同じく問題解決に参加者や視聴者を導くものであることは同じとしてもそのプロセスには大きな違いがあるような気がする。
それは異見を認め、それを生かす、それを尊重するという点と解答がひとつではないという点にあるとみた。

医学者や医学生、またそこに入る為の受験生たちの最大の思考過程回路の問題は「解答がひとつしかない」という考え方である。
これはこと病気の診断については有益であろうけれど治療の方法、患者さんへの対応については無限の選択肢があってよいのではないだろうか。
特に心の病やいくつかの難治・不治の病気についてはこれが言えると思うし、世界の平和とか国際関係については白か黒か、戦争か否かなどと短兵急に問題解決をはかろうとするよりもサンデル氏のようにお互いに考えを知り、共有し、対立は対立としてその根底にある愛の思想とかについて「考えさせる」というやり方こそ問題解決とは違う、問題を多面的・根源的に「考える」ことそのものが解決と言えるのではないか・・・なんて考えている。
問題=解決・解答はひとつという人間の思い込みは多く学校教育や社会全体としてのメッセージとしてとても一般化しているものであるけれど「チョット待てよ」
○問題を無視するという立場(これも弊害が多い)
○問題を長期的に考える(時間が経てば自然に解決するものがある。たとえば失恋など人生の大部分の問題)
○問題を根源的、多面的に考える(国際関係や平和の問題など)
○問題がいったい誰の問題か等々5W1H的に捉えていくのも一法と思える
○誰の問題か
○いつの問題か(時間的把握)
○どこの問題か(空間的把握)
○何が問題か(問題の本質を把握)
○なぜ問題なのか(問題の起こる理由)
○どのように問題なのか、また解決するのか

最低これらの視点をもって問題に望みたい。
それを紙に書きながら考えていくと問題が問題でなくなっていくものなのだ。
それは多分90%程と考えている。
いかがであろうか。
人間はももともと問題を通じて学び成長していくものなのだ。自らの抱えるすべての問題と正直に直面し真摯に愛を中心に据えて考えるとき問題は問題でなくなり、それは自分を磨く貴重な砥石であったことに気付くはずである。

追記
知性と知能は混同されがちであるが、全く非なるものであるそうだ。知能は答えのある問いに早く正しくひとつの答えを見出す能力のことで、先述した、医者の診断技術などはこれに当たり、これを大学でも臨床でも徹底的に鍛えられる。一方、知性とは、答えの無い問いに対して問い続ける能力だそうである。高学歴の人々、たとえば医者や弁護士などの専門職にひどく知性的でない方を時々見かけるが、これはひとえに教育のあり方の問題とこの二つの言葉の意味の同視と混乱が原因と思える。教育者、教育関係者については特にこのあたりのセンスは意識しておかれると本人や周囲も楽になれるしかなり有益と思える。
所謂博識者と知恵者にも極めて大きな差があるし優劣としては後者に軍配が上がるような気がする。人生には普通の学校教育、受験教育では教えない「答えのない問い」がいっぱいあってそれに対応していく即ち問い続けるセンスが肝要である。同時にそれそのものが人生の本態であるのだ。いずれにしても整理しておきたい問題である。

ありがとうございました
M田朋久



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