コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ めくるめく2014. 6.21

深い喜びや快楽を表現する時に使う形容詞・・・と思っていたが、ネットで調べてみると「目がくらむ。めまいがする。また魅力にひかれて理性を失う」という意味であるそうな。
しかしながら一般的に前記したように、どちらかというと人間の心や感覚を甘く陶酔させるような喜びや快の状態の接頭に使われることが多いようだ。
「めくるめく世界」「めくるめく喜び」「めくるめく快楽」「めくるめく悦楽」「めくるめく感覚」など・・・。

割と好きな言葉で、頭の中でこれを使うことが多い。
いくらか文学的な表現なので話し言葉には使わない。
あくまで心の中や文章の中で頻用される言葉になっている。

筆者の場合「めくるめく・・・」を冠した感覚状態は性的なエクスタシー、絶頂感覚、深い快感などについて割と限定的に想起される言葉である。

人生の最初のめくるめくはやはり初めての射精の時で、それを今では正確に、鮮明に、ありありと感覚することはできないくらいはるか昔、即ち45年ほど経ってしまったが、その感覚の深さについてはうっすらと思い出すことが出来る。

脳に記憶されている筈であるのに、その快感を実際に今の肉体で再現することが出来ないのは甚だ残念であるので、そういう意味ではあの「めくるめく・・・」を毎日のように再現できた思春期から青年期に戻りたいなどと瞬間的に思ったりもするが、それほど切実なものではない。
そういう快楽が急激に衰えたワケではなく、徐々に薄皮を剥ぐように少しずつ上昇や下降を繰り返しながら「めくるめく」が減弱したからではないかと思われる。

それでも当時お世話になっていたポルノ雑誌や写真にはその感覚をうっすら呼び覚ましてくれるチカラがあるようで、昭和40年代50年代のそれらの類書は今でもコレクションしていて楽しんでいる。

神の与え賜うたこの性的快楽があまりにも深いので、現在それが手に入らなくても、たとえば一部の快楽を誘う薬物である麻薬(多幸感)、覚醒剤(感覚の鋭敏さ)、コカイン(活力の上昇)など違法な類のものには「めくるめく」があるのであろうか。
幸か不幸か筆者にはそれらの薬物への欲求も経験も癖も無いので、それらで喜びを得ることも苦しんだこともモチロン社会的・法的に苦境に立たされたことはない。
ありがたいことである。

一武の芸能人や一般の人にもこれらの違法な薬物への依存が生じてしまった人生が滅茶苦茶になってしまうこともあるようで、時々マスコミを賑わせているようだ。

作家の浅田次郎氏が述べているように、最も安易で割の合わない、日本国に限らず重大犯罪が「飲酒運転」と「違法薬物」であるので、くれぐれもこれらの犯罪に手を染めないようにとメディアで繰り返し報道され、警鐘を鳴らされているけれど相変わらず常習犯が絶滅したワケではなさそうである。

飲酒運転はともかく、簡単に手に入れることのできるアルコールという薬物も含めて医薬品以外の違法薬物についての快感獲得は、それが社会的に強烈にバッシングされてしまうだけでなく、それに耽溺した人間の苦しみは並大抵ではない。
実のところアルコールへの依存は違法なソレらよりも深刻で、その理由のひとつにその手に入りやすさ(コンビニに売っているし、自販機でも買える)と警察に捕まえてもらえず相当に「悪化」するまで何らかの収容施設にすら入れてもらえないということがある。
つまりアルコール依存については野放し状態に近く、こんなに危険な薬物は無いだけでなく「めくるめく」程の快を得ることもできない。
くれぐれも「お酒」には若い時から用心するべきであるが、最近では若い女性ことに専業主婦や若い母親を中心にアルコール依存になってしまい、それがただ単に不注意であったり油断であったり社会のソレ(アルコール依存)についての注意の喚起がなされず、どちらかというとソレを煽るようなテレビの宣伝広告のみならず飲酒習慣を誘うような生活文化の映画やテレビ番組での提示みたいなものがあって少しも誰もこれらの実態について警鐘が鳴らされていないのはどういうワケであろうか。

やはり飲食業界、ことにアルコール製造販売会社はタバコメーカーと同じくどこかの国みたいに広告宣伝について制限すべきと思えるが、そのような気配や動きは全く見られないのは残念である。

繰り返し述べていることであるが多くの医薬品などよりもアルコールやタバコ、食品添加物を山のように入れ込んだ多くの加工食料品の方がはるかにカラダに悪いと思うのだけれども、一般の人の認識ではクスリというと医薬品と一部の違法薬物との感覚的、情緒的混同視と食べるものや飲むものについてや、それらの広告宣伝についての警戒心の無さには驚かされると同時にこれらの実態についての啓蒙も我々医療関係者の責務ではないかと思える。

人間は何らかの快感がないと生きていけないそうで、今生きている人の多くはそれらを何らかの方法でそれぞれ得ながら日常を送っている筈で、或る意味大したものであるが、それらの中に「めくるめく」ほどの快感というと筆者の場合情けないことに性的、ソレ以外に思い浮かばない。
それはたとえば性的な激しい興奮とかエクスタシーとかオルガスムスとかではなくても女性の容姿・肉体の観察や衣類などで得られることがとても有難い。
特に薬物も何も要らないからである。
最近凝っているのはスカートに包まれた女性の腰つきというもので、今春亡くなった今や官能小説家(?)・渡辺淳一氏などもこのあたりのこだわりについて述べておられて自分もそのようなトシになったなぁと思うと同時に、このあまりに普遍的な女性美エロスの極致が女性の肉体のささやかな曲絶であり、それはあらゆる女性という存在が具有していて、たとえばニューハーフなどがそれ(腰つき)を得ることと普通にはできないほど貴重なものなのにそのような性的感性を持ち合わせていないとそれらの観察や鑑賞からだけでは「めくるめく」は得られない・・・ということに気がついた。
ただし都会の雑踏を歩きながら自然に目に入る老若の女性のさまざまのファッションに包まれた肉体を見るにつけ、帰宅した時の奇妙に盛り上がった性的興奮というものが無意識に目に入ってくる「めくるめく」喜びであった・・・ということにも気がついた次第である。

テレビで観ているスポーツの観戦と選手や関係者たちの勝利への執着と感動の姿を目にした時にもそこにある「めくるめく」喜びを認めるので、これらに類した活動にも「めくるめく」があるのであろう。
世界は自らの感性次第で「めくるめく」快楽だらけであるのにどうも普通の状態で油断していると人間という生き物はネガティブなこと、否定的でマイナスなことに同調しやすいようで、ここは何としても「めくるめく」を自分の人生や日常生活に発見しそれを楽しむことがよりよく生きようとする人間のひとつの方向ではないだろうか。

「生きているだけで丸もうけ」

明石家さんまの言葉だそうで、筆者もこの言葉は好きである。
人生はめくるめく喜びに満ちている筈である。
たとえどんな状態であれ。

昔、脳内麻薬(エンドルフィン)という言葉が流行していたことがあるけれど先行きが不透明で年金、医療、環境、国際情勢、個人では老化、病気、事故、貧窮など個も環境もマイナスに思える今こそ脳内麻薬を何らかの方法で、できれば薬物に頼らずに得られたら素晴らしいであろうし、詳述はできないが神の与え賜うた我々の脳には「めくるめく」喜びや快感を得られるように創造されている。
少なくとも個人的にはそう信じたい。

ありがとうございました
M田朋久



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