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■ 未然 | 2014. 6.11 |
「未病」という言葉があって、これは「予防医学」に連鎖したソレで、考え方としてとても健全なものである。 病気というのは検査や診断や治療などより「ならない」のが一番で、一生涯健康に生きてコロッと死ぬのが理想ではないだろうか。 表題の「未然」であるが、これは「まだ起こっていないこと」・・・だそうである。 「未然に防ぐ」という表現が定型で、あらかじめ事件やら事故やら犯罪やら病気やら、それが起こっていないのに何らかの「手を打つ」為には色々なメディアのネガティブな情報も結構価値があると言える。 世の中にはまことに曲々しい出来事や病がいっぱいあって心配性、神経質な人々にとってはこの世界はまるで「針のムシロ」なのではないだろうか。それらからフリーでいるためにさまざまなパターンの不幸な出来事の報道は、「あ〜はなりたくない」と、実際に自分で経験しなくてもそのイヤラシサについての恐れから「未然に・・・」という無意識の行動が生まれると思える。 最近では、医学的にも遺伝子や代謝物の検査でその個人の病気になりやすさが結構カンタンに判定できるらしく、今後は医療の現場でも応用・実用化されていくにちがいない。 過日も米国の有名女優、アンジェリーナ・ジョリーという人物は自らの遺伝子検査で乳癌のリスクが高いといいうことで両乳房切断術というのをやってのけて世界中を驚嘆させた。 筆者の感覚では何ら不思議なことではなく、そのような行動は自分も選択するかも知れない。 割と容易に・・・。 「未然」という考え方はこの世界を生きるのにかなり有益であると思える。 平成25年6月9日に筆者の3番目の息子の眼鏡を買い求める為に熊本市内に向けて高速を飛ばしていたら速度違反で覆面パトカーに捕まって免許証の点数が累積してしまって、もう一回捕まったらたとえそれが駐車違反や軽微な速度超過などでも免許停止になってしまうという状態になった。 笑い話みたいであるが、或る警察OBの方に雨の日は「覆面はいない」と言われ、また雨の日には屋根の赤色灯を点滅させた白黒コンビカラーの警察車が高速脇に止めて警戒するのを見て、例の怪しい覆面パトはいないようなので「今日は雨の日だからフクメンはいないゾ」なんて口走りながらアクセルをチョコっと開けたらすぐに捕まって、乗せていたのが好みの女性であったなら大恥やネ・・・。 ついでに息子曰く「ケーサツの人、覆面とかしてなかったヨ」だって・・・笑っちゃいますね。 ・・・というワケで今年(平成26年)の6月9日が今日。 3日前からクルマやバイクに乗らないで待機していようと思ったら、急に熊本へ出かけなければならない用事が出来て、JRやバスなど当たってみても時間が合わない。 田舎の鉄路なんて2時間も何も駅を通らないなんて状態があって、都会でしか使わない公共交通機関を利用しない自らの盲点に気づいた次第で、仕方なしに恐る恐るクルマに乗り込みソロソロと用心深く運転する羽目になってしまった。 別に違反さえしなければ良いワケであるけれど、よく逃げまわっていた犯罪者が時効を目前に警察に捕まった話などを思い出しなが、らまた、過去のいやらしい免停やら講習やら検察庁の聴聞やら色々の不快な経験を思い出しながら、超「安全運転」をしているとこれが割と楽しい。 免許取りたての頃の新鮮な気持ちを味わえたし、何となく有難いなぁなんて理由のない謝念みたいなものが心に湧き起こり、用心深さ、慎重さというものは自助自立にとって極めて大切であることにあらためて気づかされた按配であった。 何事も「初心」とか「感謝」とか「用心」とかの神妙な心構えは大切なことである。 もともとヘタクソな上に荒っぽい運転をしがちな筆者が何故か毎年一回は交通違反で捕まるのは神様の優しい優しい愛の一鞭なのである。 「用心しろ」「調子に乗るな」みたいな。 それでも6月9日は一年間ずっと心を少し暗くしていたので、今夜は一人でひっそりと祝杯を上げたい。 「点数が帰って来ておめでとう」なんてネ。 「未然」という言葉。 仕事でも日常生活でもキッチリ心に留めて置きたいものである。 未病という考え方は昔かラ強く持っていて、健康維持のための情報収集は医学書以外でもできるだけ、集めるようにしているが、先日もとんでもないこと書いてある本が堂々と平積みされていた。それは宇田川久美子という人の書いた本で、「それでもあなたは薬をのみますか」なんてタイトルで、要するに薬を飲むな、というメッセージを持つ内容である。この方は何と薬剤師という肩書もお持ちで、筆者の知人にも同じように絶対に薬を飲まないとおっしゃる薬剤師の先生もおられて、薬学部というところはいったいどんな教育をされているのであろうかと強い疑問にかられる。薬をまるで毒のように述べる人々を時々見かけるが大体同じようなタイプの人がほとんどでそれは一言で表現するなら「独善者」。自分の考えが一番というタイプで結構有名人の中にも散見される。そもそも健康にとって有益であることをもって「薬」というのであって、有害であるならばそれこそ「毒」と呼ばざるをえない。最近は特に薬の副作用について書かれている類書が多く、「医者の出した薬がわかる本」ねんてのもある。すべての薬に確かに副作用というものがある。しかしながらその益が害をはるかに上回ることをもって薬というのであるから、もっと優先すべきはその効能や有益性についての議論をしなければ片手落ちと言わざるをえない。重ねて申し述べておきたい重要なことである。世の中には薬の力で生きておられる人がいっぱいいて、早く飲んでおけば良かったなんて方もまた数限りなくおられるのである。 たとえば血圧を下げる薬、降圧剤など脳卒中を未然に防ぐことを最大の目的としており、医療者が血圧の異常に高いまま放置しておくことはできまい。減量や運動、食事療法だけで治すのにこしたことはないけれど、それがそれほど簡単でないからこそ薬の存在意義があるわけで、世界中で医療の中心的役割を果たすのは相変わらずお薬であり、医者本人よりも薬そのものを求めている人々が山のようにおられるのも確かな事実なのである。20年以上前に薬を携行せずに世界の極貧地帯に医療ボランティアに出かけ、何もお役に立てずとんだ赤恥をかいた出来事があったらしく笑っちゃうけれど、真実笑い事じゃなく、この程度の認識レベルの人が結構多いのには本当に驚かされる。 こと普通の内科レベルの薬については飲まない害の飲む害よりもはるかに大きいというのが筆者の偽らざる感想で医者の友人で夭折した人々の殆どが「薬は飲まない」と生前言っていた連中ばかりである。未病という考え方にとっての薬の位置づけはかなり高いのではないだろうか。深考したいテーマではある。 ありがとうございました M田朋久 |