[戻る] |
■ 母の日に思う | 2014. 5.15 |
日本の5月には何故か「母の日」というのがあって、所謂旗日(祝日)ではないのだけれど割と日本中でその日の意識が一般にあまねく行きわたっていて、それはバレンタインデーなどと同じ程度ではないかと思われる。 これまた何故かカーネーションを贈るというのが習慣になっているけれども、花言葉に母の日と連なる意味が込められているのかも知れない。 筆者にもかつて(10年前に他界)母親がいて、それはどちらかというと孟母であり、或る程度の人格と博識と言える程の豊穣で雑駁な知識を持っていて、筆者に色々な薫陶を授けてくれて、それらは筆者の人生に多大過ぎる程の影響を今でも与え続けている。 それらの殆んどはとても有益な事柄ばかりで筆者の日常と人生に好もしい情報が多く、たとえば信心をするべし、従業員の方を大切にするべし、人の道つまり人倫に沿って物事を判断すべし、食事は慎重に選択し過食しないように等々多岐にわたる。 「女は恐るべき存在で決して軽々と付き合い始めたり侮ったりしてはイケナイ」というものもあったけれども、何故かこの知識は自らの性欲の強さのためかあまり頭に入ったようではなく60才を過ぎてもいくらかの女性とののっぴきならないヤヤコシイ関係がつづいている。 モチロンこれらは筆者の油断と母親の助言を聞かなかった結果であって、またこのような事態が決して自分で望んだものではなく自然に「そうなってしまった」という感覚であって、当然ながら何の悪意も邪心もなく、幾分無邪気で幼稚で浅薄な人生観、恋愛観によるものと思われる。 母は昭和3年3月8日生まれで九紫火星。 この年生まれの特徴どおり料理が上手く若い時に可憐で上品で、わが母ながらそれなりに美しい容姿を持っていたが年令と共に言葉が荒く悪くなり40代半ばで寡婦になった後は自由で気ままな生活ぶりの為に糖尿病を患い、それにつづく胆のうの悪性の病をもって75才であっけなく他界してしまった。 梅の花の割くころ、つまり2月末から3月初旬には特に理由もなく必ず母を思い出し、自分の意志に反し今でも深い感傷を心の底に抱いてしまい、時に落涙する。 母の日にはあまり良い思い出はない。 小学校の時に子供なりにささやかな贈り物をしたのだけれども少しも喜んでもらえず、逆に拒絶されたような按配で、それはささやかな出来事ながら心苦い体験となり、以来女性に贈り物をしたりお土産を買ったりというのが苦手で、それを必要があってせざるを得ない時には結構な時間と神経を要する。 また人からの贈り物、プレゼント、お土産は職業柄頂戴することが多いのであるが、それをキッパリと断ることはできない・・・というより受け取ることが相手への好意・受容であると少なくとも心理的に捉えているので、それが所謂「袖の下」とか賄賂、自分への特別なハカライを要求する意図が隠されていたとしても全部ひっくるめて殆んど拝領するようにしている。 いいことか悪いことか分からないけれど・・・。 人の好意を拒まれるというのがとても嫌な気分になるということを実は子供の時、母の日に初めて実感し、その後の人生でもそのような心の傷つき方を自分が何度もしてしまったので自分には贈り物をするのに或る種の勇気を要し、それを受け取るのに拒まないという習慣が身についてしまったようだ。 何だかとても身勝手な印象を持たれた方も多いと思うけれど金銭の授受についてはあまり抵抗がなく、どちらかというと与え過ぎたみたいな状態で、プラスマイナスでいうならマイナスであると感じるけれども、そのことで別に困ったり不自由したりすることはないので今のところ「放置」している。 母は8人兄弟の長女で下は男ばかり7人。 母の母親、つまり祖母はお嬢様で家事、子育てなど殆んどできず、数人の使用人(お手伝いさん)にそれらの一切をさせ、母には子守りを強いた人らしく、母は終生祖母への軽蔑と悪評を口にし続けた。 一方、祖父にはいたく溺愛され懐に抱かれて育ったとのことで、それが精神的な強靭さを獲得せしめたと同時に子供時代の長い子守りの苦労の為か自分の子供(筆者自身とその兄弟)については子育てがどうも苦手であったらしく、それはどちらかというと少し冷淡で激しい性格の酒乱の夫との確執や疲労の憂さを子供、とりわけ自分に向けていたとも聞いている(これは兄弟たちの言で筆者は殆んど憶えていない)・・・とは言え、子供への教育への情熱は激しく強く、この点では父と同じ意志を持ち、ありがたくもかしこくも筆者への高等教育への経済的、時間的、精神的エネルギーの注入が今の自分をつくりあげてくれたことへの感謝を忘れたことはない。それに強い信仰心、とりわけ先祖の供養についての情熱的な働きかけと実践は「家」の安定と復興について多大の好影響を及ぼしたようで、父を除く家族全員のそれらの神事への正しい知識の獲得と実践が習慣化され、ようやく人並みの幸福と安寧を得た・・・と心密かに信じている。 ありがたいことだ。 母は読書家で、信心家で、易占いに凝り、博識でさらに霊媒師としての顔も持っていた。 さまざまの相談事を引き受け「足止め」とか言う「技」も持っていて、探し人のほとんどの消息を発見する、返って来させることができたらしい。 筆者自身も1度目の結婚相手が家出した時には1週間ばかりして母にそのことを告白した時には早速「詣ってみる」と言って実行したところ数時間後に帰宅し驚いたものである。 重い精神病を治したりもしていたが、そのような霊的な作業をやりつづけると生命力を消耗するらしく、別の霊媒師の方に相談すると母の写真を見て「スカスカになっておられますネ」と直言されてしまった。 孟母三遷という言葉があって、子供の教育の為には家を三回は転ずるのも厭わないそうで孫正義の母親がそうであったらしい。 そのような情熱と子供嫌いが存する不思議な人であったが、筆者をしてウットリするような甘い母性愛への郷愁を強く持たせるマザコンにはさせなかった。 母親の声や関わりを、関心を嫌い逃げ回っていたという思春期の記憶がある。 母が亡くなって丁度10年。 今年の母の日には墓前にカーネーションを飾った。 母への信頼と微かな嫌悪感と親しみと尊敬と深い感謝の念は生涯消えないであろう。 世界的なレベルでは意外なことに母子の絆の強さが先進国中、日本は最低であるらしい。 その絆の浅さは乳児期の深いスキンシップ、即ちオンブにダッコ、チチ(授乳)、ウンチ(排泄)、添い寝など子供の自立を促進する子育て法にあるのではないかと推測している。 母子が密着せずお互いに自立していることは、絆の浅さとなって成人してから表現されているのだ。 とりあえずひとりで生きて行けるだけの力をつけさせてくれた母のシツケと厳しい教育には重ね重ね深謝したい。 ありがとうございました M田朋久 |