[戻る] |
■ のらりくらり | 2014. 4.22 |
ぬらりくらりとも言う。 自分にとって不都合なこと、好もしくない物事を避けるのに意図的にそれとなく逃れようとする様をこのように呼ぶのではないか・・・。 世の中にはその必要がことさらに無いのにどんなことでも白黒をハッキリさせる、決着することを他人や身内に迫る人々が結構おられて「どうでもいいじゃん」なんて思うことが数多くある。 そもそも生きて行くのに必ずしなければならない義務というのは減らすに越したことはないと思うのだけれど、或る程度習慣化され、ルーチン化され、日常に埋没した特に必要でない行動もいったん全部やめてしまって一度見直してみるのも良いかも知れない。 語意的には上記の意味と同時に「何もしないでブラブラしていること」ともあった。 自分の感覚では自分自身を冷静に評価するのに、この「のらりくらり」そのものであると思えるが、特段困ったことはない。 周囲の人は多少振り回されている風ではあるけれど、これが自分の生き方であるので仕方がない。 「ゴメンナサイ」としか言いようがない。 個性学という学問というか占いめいた人の分類法があって、 人志向:恥ずかしくない生き方をしなければならない 城志向:人生は楽しむ為にある 大物志向:人生は可能性を試す場 とあるが、言わずもがな筆者はまぎれもない城志向となっているそうだ。 この城志向の人のほかの特徴を列記すると、 「好きな時に好きなことを好きなだけやっていたい」 「自分らしさを大事にする」 「自立している人が目標」 「競争する人」 「具体的な形に表現する人」 とあり、いずれも首肯せざるを得ない特質ばかりである。 表題の「のらりくらり」も、とりあえず仕事をしているけれども人生全体、特にプライベートにおいては「のらりくらり」そのものである。 とにかく、すべからく優柔不断なのである。 「わがまま」なのである。 「自由人もどき」なのである。 真の意味の自由人ではない。 あらゆる執着を捨て去っているワケではないし、いつも心がのびやかに世界を飛翔しているワケでもない。 市井の平々凡々人として酒を飲み、女性を愛で、少しの食を楽しみ、クルマやバイク、映画や読書やとりあえずそのあたりにある近場の娯楽にうずもれて生を保っているだけである。 有難くもかしこくもこのようなお気楽で呑気な生活ができるのも日本国や地域の人々、スタッフや患者さんのお陰であるので感謝感謝の毎日である。 全くもってありがたいことだ。 「のらりくらり」「のらくら」 している自分について昔は時々自己批判していたけれども、今は一切そのような考え方・見方はせず自分にも他人にも甘く優しく、できるだけ嫌な事は遠ざけて考えず決断を迫られても特に必要がなければそれもせず、どうせ時間が来たら何もかも(自分の人生は)終わってしまうのであるので、ここは時間稼ぎみたいなもので前記した「認待力」よろしく待つこと、待たせることに肯定し、何事かが偶然に起こればそれは自分の決断のお陰などではなくて殆んど神や天の啓示にも似た人生のお勉強の為のハプニングと考えている。 ・・・とは言えこの生き方で全くいい、とは考えていない。反省はもちろんある。きびきびと逃げずに決断し必要に応じ対決しなければならない場面もかなりあることは承知しているつもりである。けれどもいやに「そのこと」が窮屈に感じるのであれば、のらりくらりという決断があってもいいのではないか・・・と思っている。 ありがとうございました M田朋久 |