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■ 哲学する人間 | 2014. 4. 9 |
生きるということ、哲学することというのは広義に哲学というものを捉えると多分同義になるのではないかと思える。 今は哲学という言葉が色々な分野で氾濫していて、元々の意味が忘れられ気楽に使われ過ぎているけれども、それはそれで結構なことではないかと考えている。 思想とか信条とか信念、考え方、生き方や仕事の進め方、手法などなどあらゆる場面でこの言葉がマスコミで出てくる。 もう少し大学生以上のインテリでなくても、もっと頻用して良い言葉なのではないか・・・などと考えている。 西洋哲学と東洋哲学に分けられ、後者は多分に宗教とかぶってくる。 プラトンやソクラテスなどギリシャ哲学あたりが西洋哲学の始祖と思えるので西洋系の宗教、たとえば宗教≒キリスト教みたいな西洋の文化からすると東洋哲学、東洋思想というのは多分に宗教色を帯びるようだ。 即ち仏教、ヒンズー教、儒教、道教、日本神道など考えてみれば哲学そのものである。 ウィキペディアによれば哲学とは語源的には「愛智」「愛知」だそうである。 外国の地図にTOYOTAと時々書かれるトヨタ自動車の本拠地・愛知県は名称そのものが哲学的と言える。 現代テクノロジーの粋を集めた最新型の自動車というものが、それこそ「愛知」のカタマリであることは論を待たないであろう。 テクノロジーという言葉も技術(テクノ)と論理(ロジック)の併さった造語で、精神界と物質界に分けられたフィロソフィー(哲学)とテクノロジー(技術・理論)と考えて良いかも知れない。 言い換えるなら人間の造り出したものには必ず造り手の思想や哲学が存する筈であるし、又そうでなければならないと思える。 人間社会のすべてがまず「哲学ありき」で存在しているのだ・・・少なくとも人工物においては・・・。 個人的には中世の百科事典的著作「語源誌」において哲学とは「生きようとする努力と結合した人間的、神的事柄に関する認識である」が最も心にフィットする。 さらにフランスの某哲学者とか感性論哲学の芳村思風によれば哲学とは「幸福になる為の学問である」としているがこれも解りやすくて良い。 いずれにしても好むと好まざるにかかわらず人間は自然、哲学するものであり、この言葉に否定的な人ですら非哲学という哲学に生きているということにもなる。 何がしかの思索を通じて物事、人生全般について分析し明確にしておくこと(哲学する)ことが個人の人生において有益でなかろう筈がない。 それが人によっては、また周囲の人から見てとても奇異で変態的であってもその個人の幸福感を得る、他者に悪影響を及ぼすものでなければ狂信的な宗教の有害無益な教義などよりもはるかに有益であろうと思える。 ありがとうございました M田朋久 |