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■ 雨の朝パリに死す | 2006. 4.25 |
毎日、仕事の日は墓参りをする。 父も母もそこに眠っている。 いずれは自分もここに入るはずだ。 ホッとするようで、何か現実味がなかった。 けれども2年前までは母と一緒によく墓参りに来ていたから、彼女が他界した後は妙に実感が出てきた。 怖いですネ。 自然に行けば、年をとって老人介護施設に入って、若い人に看られながら死んで行くのであろうけれど… どんなに愛情や金があろうと、家族のメンバーが多かろうと、今どきは家族とかアテにできない。 そういう時代だ。 そういう現実を意識しながらも、「雨の朝パリに死す」なんて、著者は忘れたが、有名な小説のこの表題からイメージできる世界は、なんとなく憧れる。 外国、特にヨーロッパの街を放浪し、漂い、さまよい、アル中かなんかなって横死する。 つまり「野垂れ死に」だ。 ふとんの上やベッドの上で死ぬことが必ずしもハッピーとは限らない。 要は価値感覚の問題だ。(暗い話ですネ) こう考えると、春の陽光にまぶしく輝く我が家の墓石のなんと頼もしいことか。 人間はいつも帰るところが必要なのだろう。 本能的にそうなのであろう。 母国、ふるさと、実家、マイホーム、etc... 私自身は地球上であればどこで死んでも良いと思うが、「愛する人の腕の中で死ぬ」ことができれば良い。(ロマンチックでは…) 多く、どんな境遇であれ、死は孤独だ。 今は家で死ぬか病院で死ぬか、はたまた老人ホームで死ぬか。 何でも妙に「年寄りくさい」。 年金とかの問題と同レベルで議論されているが、意外に本人の選択権はない。 死というものはほとんど突然にやってくるものが多い。 死期の決まった悪性の病気であっても、カラダが動かないケースが少なくないのであるから、周囲の人々、社会や環境の意志が多く優先される。 だからこそ「雨の朝パリに死す」なーんていうのはやはり、ただの憧れとは言えない。 結構現実味のあるイメージ、ビジョンなのである。 ある種の動物みたいに人知れずひっそり死ぬと決めたら、人生の結末などほとんど自然死に近い形になってしまうかもしれませんね。 人生50年と思っていたら、52才になってしまった。 感謝です。 暗い話でゴメンナサイです。 ありがとうございました。 濱田 朋久 拝 |