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■ 人生脚本 | 2014. 2.28 |
交流分析(エリック・バーン)という心理学における考え方のひとつで、その理論は一般にも医療心理関係者にも概ね広く受入れられている。 日本の心療内科でも心理分析、心理療法の手法として認知されている交流分析(TA)であるが、この考え方が全てを解決するワケではない・・・ということを念頭に置いて書いている。 幼児期から少年期に書きあげられた人生脚本というものに人生が支配され、それから逃れる人は僅か1%であるそうである。 あまり心理学について勉強していない人にとってそんなことは「俺は自分の人生を自由に生きていない」と思い込んでおられる方も多いと思うけれども、よくよく考えてみれば人間の生涯というものが生下時や親や幼児期の体験に強く深く影響を受けていることは誰もが感じている事実である、多くの物語や小説、文学、映画、芸術というものが特に著名人、有名人、偉人にいたるまでそれらの影響下に無い人は皆無であると断言して良いと思える。 多くの伝記や評伝や歴史を読めば読むほどそれらの理論をあまねく表現しており釈迦やキリストですらその物語の背景の中に少しく感受することができる。 まして歴史上の人物や普通の有名人などこれらの人生脚本の全き支配下にあることがインターネットのWikipediaなどで調べてみるとまざまざと見せつけられて思わず瞑目沈思してしまうほどである。 考えてみれば人間の人間たる由縁を辿ればそこには言語があり教育があり、文明があり、文化があるワケで幼児期からこれらの洗礼を受けて育つのであるから仕方がない。 「〜してはダメヨ」「〜しなさい」「〜するべきです」「〜こうあるべきです」「あ〜しろ、こ〜しろ」など、あれするなこれするなというのが子育てや教育の基本であり交流分析で言うところの禁止令(〜するな)、拮抗禁止令(〜しろ)というものが子供の時に無闇やたらに浴びせられるワケであながちそのことが悪いとは決して言えない。 「〜しても良いよ」「あなたは自由よ」「愛しているヨ」と育てられることも決して良い事ばかりではない、何の圧力も禁止も制限も無ければ、自由とか愛とか許可とかの喜びも味わうことができないのではないか。 ・・・というワケで子供時代に心の傷(トラウマ)を負わなかった人はいなし、それが生死を分ける程深刻なものであるなら尚更のことそれに触れること直面することに注意と勇気を要するであろうし、また逆にそれらの幼児期の決断によって人生が或る程度決まってしまうということがその人物の人生の宿命というか運命というか仕方が無いというかどうしようもない部分がかなりあって、多少は心理学を勉強しておられる方ならこのことは何となく諒解しているのではないかと思える。 ・・・とは言え、この極めて厄介な「人生脚本」を何とか料理しなければ自由で楽しく豊かな人生を手中にできないというならこれらの理論・理屈を知ると同時にそれらから脱け出して自らが自らの手で書き直した「脚本」を元に新しい人生をその手にしっかりと持つことができるかも知れないのだ。 人生脚本の成り立ちについては割愛する。 分析する興味深さはあるが治療に役に立つか微妙である上に親子の相性の問題、生来持っている基本的な気質・性格の問題、その心の傷の深刻さの度合いの問題があってあまりに専門的すぎることとそのデリケートさにおいて本人(人生脚本の持ち主)の解釈がその知性、即ち持っている言語の能力や感性に大きな違いがあって結構難しい作業になるからだ。 ごくごく一般的に誰もが見聞、認知できる簡単な範囲で述べるとまず人生における主に対人関係の立場が4つに分けられることを知っておきたい。 @I am OK You are OK(私もあなたもそれで良い) AI am NO You are OK(私はダメだけどあなたは良い) BI am OK You NO(私は良くてあなたはダメ) CI am NO You NO(私はダメであなたもダメ) この中では一見ではCの立場が最も悲惨に見えるが実はBが最も厄介である。 「私は正しくて世の中がマチガッテいる」 これはチョット矯正不可能である場合が多く、この立場を頑なに守ろうとする、もしくは守ることが自分のアイデンティティーと確信しておられる方の場合、場合によっては社会的逸脱行為とか不平不満の塊で鳴かず飛ばずの人生とか、とにかく本人も周囲も大変ということがママある。 社会的には、ことにビジネスの現場では「自分はダメなのではないか」という立場を選択しなければ自己成長・自己変革(イノベーション)は起こらず会社も社会も発展しない。 ・・・であるのでビジネス書などではAの立場で@を目指すというのが比較的に健全であると思え、絶えず反省し努力を怠らないという意味で・・・。 但し基本的には@の立場が精神的には最も平和で、愛と感謝に満ち素晴らしいのは言うまでもない。 ただ何度も述べるように学校における教育とか躾において@〜Cの立場を全て知っておく必要があると思えるし、それが教育の本態ではないかと考えている。 たとえば学校の先生など教室では子供に対して禁止と許可、アメとムチをもって上手に心理操作し、大人もまた人間的感情を持っていてそれが立派な人格を持った素晴らしい人物であるにこしたことはないが、たとえそういう人物でなくてもそのまんま反面教師としての学びを子供なりにするのではないか。 これは親子の間にも言えることである。 しかし大人の社会(職員室)では@の立場、即ちI am OK You are OK、お互いに信頼と尊敬と感謝、愛と礼節をもって和やかに過ごすべきであって子供の教育への立場はそのまま学校という組織のヒエラルキーに即して禁止や許可を繰り返し、ギクシャクとした人間関係を持っているのは病的であると思える。 ちなみに禁止令を列記しておくと 1.存在するな 2.成長するな 3.自分の性であるな 4.子供であるな 5.重要であるな 6.成功するな 7.所属するな 8.健康であるな 9.親しくするな 10.感じるな 11.考えるな 12.実行するな 13.欲しがるな の13になるそうな。 対する拮抗禁止令(ドライバー)には 1.完璧にしろ 2.満足させろ 3.努力しろ 4.強くなれ 5.急げ だそうだ。 これらは親やその他の養育者の言語、非言語メッセージとしてほとんどの子供に伝えられる。 これは人間の成り立ち、成育上、理論的に避けられないことで仕方ない。 ただこれらに基づいた本人の無意識で理由のない有害な行動が生じている場合、心理的な何らかの働きかけをすることが望ましい。 人生脚本の書き換えには4つの方法があるとされ、TPPPと憶えれば良い。 CT3Pでも良い。 それは @T:弔辞を書く APermit:許可、ゆるす BProtect:保護、まもる CPotence:能力、できる 弔辞というものは人生の終わりに友人知人によって読まれる。 誉め言葉や感謝でつづられるもので少し照れ臭いかもしれないが、何かしら自分を偉大な人物に見立てて、それも愉快に楽しく自由に生きて人々の範になるようなものが望ましいので、自然、結果的に「世の為人の為」「家族の為」「愛する人の為」に生きている方が美しい弔辞になる。 出世して大金持ちになって豪邸を建てたからと言って本人は満足かも知れないが、普通立派な弔辞は読まれない。 このことは自分の人生の生き方として大いに参考になることである。 「ゆるす」「まもる」「できる」というのは具体的に少し専門性を帯びるので割愛するが、単純にたとえれば「急げ」に対して「急がなくて良い」とか「存在するな」に対して「存在しても良いヨ」とか自分にしょっちゅう言ってあげるだけでも結構効果がある。 最終的に「ありのままのアナタで良いヨ」と言ってあげることが目標となっているが、これは教育上も一般の社会生活上もありえないので、あくまで心理的な弛緩左様とか自由感とか心地良さ、楽になった感じが得られて治療上は良いことであるがモチロン弊害もある。 何の努力もしない・・・ということがこの理論の誤解によって生じうるからである。 一般的に癒やしとか楽な道とかは結果的に苦の道になり、黄金の道はいばらの道、苦難の道でキリスト教における十字架が拷問の道具であるように苦難とか困難の先に正も邪も善も悪も超越した全き善がある・・・という考え方は人間の因縁とか業とかブレークスルーするのに或る程度必要なのではないか・・・と考えている。 そもそも人間は癒やしや楽や楽しさ、快を求めるものなので、そのことそのものが悪いことではないし、心の苦しみが自分の生き方や考え方のマチガイを示してくれることも多い。 いずれにしても人生脚本とか交流分析について知っておくことは有益であろうと思える。 それですべて解決できるワケではないという前提さえあれば。 ありがとうございました M田朋久 |