コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ おおらかさの原点2014. 1.29

生まれた時からおおらかな人間などいない。
もしかしてそういう人物がいるならそれは愚かな人であろう。
生まれたての赤ちゃんから幼児期、少年期の体験を通じて人は過敏さを身につける。
親や大人や社会や学校や職場は辛くて嫌なところだ・・・というような結論を導き出す程の過敏さ、神経質さをその心に獲得する。
そうしてそれらがある時自分を強力に苦しめるひとつの「思い込み」であることに気づき始め、それらの思い込みを捨てようと試みる。
そうしてまずある種の「鈍感さ」即ち「おおらかさ」「寛容さ」をその心にまるで鎧のように表面的に被い包み込む。
人に知れないように狡猾に・・・。

そうして自分自身をもあざむくのだ。
「自分は生まれつきおおらかで寛大な人間だ」・・・と。

自己欺瞞の最たるものではないかと思えるけれど、このようなことを少しも考えてない人も数多くおられて「そんなことは無い」と一蹴される考えかも知れないが、いつものように獲得された性格、努力して得られた人格の方が天性のモノよりはるかに価値が高いのだ。
天与より自得の方が人間として素晴らしく見えるのではないか。
背景に物語をも感じるのでますます価値づけが高く思える。

春風駘蕩という言葉のとおり人に対する時におおらかに、なごやかで優しく落ち着いた、まるで春風のようにほんのり暖かい物腰や態度が人間関係において好もしいのは分かるし、人格的にも素晴らしく「見える」ということはチョット勉強した人なら誰でも知っている。

・・・ということは多くの「立派な人」が「おおらかさ」を演出していると言えるのではないかと思える。
であるなら表面的なおおらかさなどモッテノホカと非難するワケにはいかない。
それらの人には、そのようなおおらかな様子が必要であるのだ。

筆者とて決して真の意味でおおらかな人間ではない。
多分に自罰的、他罰的で油断していると他人の小さな言動にクヨクヨ悩み、チョットしたことにも神経質で短期でピリピリしていて、特にストレス蓄積状態や多忙過労による強い疲労感でもあると頑張って「おおらか」には振る舞えないし、ついつい自分を責め、他人を責めている自分の心に気づくことも多々あって自己嫌悪も手伝い気分は最悪なんてこともある。

味覚や嗅覚、視覚や聴覚など人間の持つ五感というものは進化論的には殆んど危険予知の為の感覚であったし、それらによって元々毛皮も持たず俊敏な動きをする手も足も身体能力も持たない裸の人間にとってそれらの感覚を研ぎ澄ませることで食物の腐敗の度合い、獰猛な禽獣どもの気配を感じとり生きのびて来たのだ。

このように考えてくると人間は神経過敏、感覚過敏が当たり前なのである。

しかしながらこの傾向は人間社会のみならず猿社会でも軽蔑の対象となる。

特にメスのオスへの軽蔑はこの過敏さであり、これは頼りなさ、勇気や度胸の無さの証拠となり自分を守ってくれない頼りないオスの特徴とみなされてしまうのである。

ところが鈍感さ、鷹揚さが根底に無いと危険予知ができず、その所属集団や自らの肉体をも守れないことになるので極論するなら極めて高い神経過敏さとそれを上手く覆い隠しおおらかに振る舞う技術がいるということである。
これは家族を守る立場にある多くの男達の現状であるので好むと好まざるにかかわらず男というものは自分をボスとみなさなければならないと言える。
モチロン風来坊とか根なし草とか独身貴族とかにはこれらが適用されないので彼らは概ね思いきり神経質に部屋を掃除し清潔にしまくって悦に入っていたり自らの趣味に没頭したりしているか、あるいは逆に思う存分怠慢怠惰にキタナイ独り暮らしをしてどんなことにも責任を持たず自他に対し滅茶苦茶に無神経で鈍感なおおらかそのものであれば良いのであるけれど、そんな呑気な身分でなければ先述した内容のように自らの鋭敏さを磨きつつ表面のおおらかさ、真の意味の勇気とか度胸を涵養するべきであろう。

要するにいずれにしても過敏な人も鈍感な人もどっちもイヤで、やはり常に中庸を保ち表面的、接遇的には所謂おおらかなのが一番であるのはマチガイナイ。

おおらかさの原点はやはり大きな愛であるし、エゴの無い愛である・・・と同時に高い知性で過敏さをコントロールする智恵であろうと思える。

ありがとうございました
M田朋久



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