[戻る] |
■ 永遠 | 2014. 1.26 |
百田尚樹原作の「永遠の0」が書籍、映画共によく売れているらしい。 映画は2回観たが2回とも号泣してしまった。 感動がより深まったようで不思議な映画である。 物語に永遠という言葉は出て来ない。 主人公の家族愛、同胞愛、国や国の未来を思う心、究極の自己犠牲「特攻」での殉死も月なみなヒロイズムも軍国主義的熱情も無く、ただ人生観・哲学としての主人公・宮部久蔵の生き方の中に永遠なるもの、永遠なる何かを感じさせてくれるすぐれた作品となっている。 人間の形態としての命はきわめて儚いもので生者必滅、必ず死ぬという宿命はありとあらゆる人に例外は無い。 この峻厳な真実を思う時、それらの形の生命を何か尊いものに賭けて自ら死を選択するという行為には言葉に表せない人間だけが持つ深い感動を得る。 ・・・何故だろうか・・・と考えた時に永遠なるものとは一体どんなものであるのかを追及してみたくなる。 それは魂、霊魂なのであろうか。 単純にそのような言葉では簡単に表現したくない。 形あるものは必ず滅びる。 生命あるものは必ず死ぬ。 これらの真理が絶対的にあるということは逆に永遠なるものがこの世かあの世か分からないけれど存在しているという証明になる。 裏と表、光と闇、早さと遅さ・・・などなど物事というものは対比によってその存在が明らかになるように、この世界でイヤ世界以外も含めて永遠とはいかなるものなのか。 字面だけを見ると、永く遠くなのだけれども言葉の意味としては不変とか不滅とか終わりの無い事柄を示している。 仏教的には輪廻転生。 永遠の生命(形態ではない生命)のサイクルを自然界で微細に精密に観察すると感得することができる。 人間の意識、つまりユングの言う集合無意識のようなものが宇宙に遍満、存在していてそれらが形態としての生命を一時的にこの世に生じせしめ、この世で滅される。 この繰り返しを大いなる生命、個でない生命を循環させていると考えて良いのであろうか。 永遠と愛も真実はイコールであると思える。 死への恐れの無い高い精神もしくは死をも超越、包含した高尚で純粋な精神は真実の愛そのものであらゆる恐れを持たない。 「永遠の0」の主人公、宮部久蔵の恐れたものは自らの死ではなく家族の行く末、国家や同胞の未来、深い人類愛に満ちたもので平和への強い思いを持って敵に対し闘って生きのび、最終的には自分の家族を永遠なるものへ、即、愛と魂に託し自ら特攻隊に志願したのだ。 同胞たち、つまり特攻隊を直掩し戦陣へ送りとどけるという役目に耐えられなかった無垢の同胞愛と家族への愛とかが同化した時、永遠なるものを自らの精神の中に発見し静かで深い心の安寧の内面世界を携えて見事に敵空母に突入し散華したのだ。 「生命より尊いものがある」と気づくとき人生は安らかになる、人間は勇気を持つことができるそうである。 たしか四肢麻痺の詩画の文章であったけれど、死を意識すること、死を超越して永遠なるものに時々思いを致すことは人生を有意義にし、勇気を持って難局や問題や夢やヴィジョンや目標に向かわせるのに有益であろうと思える。 永遠の生命 永遠のゼロ 心理的には一切の執着を解き放った無の境地にいたった時が愛の世界、永遠の世界への窓口ではないかと個人的には考えている。 今ここありのまま、永遠の瞬間、この心境に思考・欲望や感情の入る余地は無い。 個人の人生にとって瞬間瞬間が永遠なのである。 ありがとうございました M田朋久 追記 とにかく映画「永遠の0」は必見である。 原作者が5回観ても泣いたそうである。 小説もモチロン必読である。 映画も原作も良質であるという数少ない作品。 特に映画は老若男女あらゆる人に観てもらいたい傑作である。 |