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■ 理想の人格 | 2013.12.28 |
割に人生の早い時期、多分20台半ばから頃から或る意味理想の人格を心の中に持っていたのであるけれど、60才にもなったことだしあらためてそれらを少し披露してみたいと思う。 個人的に理想の人格とはと考えたのはすべて小説やコミックの主人公のモノである。 過去の偉人、現在の著名人ということは無い。 これは我ながら少し奇異に感じられることであるが本当だから仕方がない。 幸か不幸か実際に、あくまで個人的な感覚で、立派な人物には会ったことがあるけれど、魅力的だと思う人に会ったことがない・・・という淋しい事実を示すと同時に自らの人格形成において人との出逢いよりも書物との出逢いの方がの今の時点でもはるかに多いということにあらためて気づかされる。 山本周五郎の時代小説で「町奉行日記」というのがあって、この物語の主人公、お奉行様の望月小平太は弱冠26歳ながら誠に魅力的な人物である。 剣術の腕前は達人の域。 度胸と頭脳もピカイチ。 それでもそれらを表に出さず、着任以来、奉行所に一度も出仕せず、市井の貧しい人々に混じり合い、必要があれば領内の極悪悪党どもとも対等に渡り合い、藩政の腐敗を正し役目を終えるとサラリと身を引く・・・なんてところが誠に見事であるし、カッコイイ。 無類の女好き、遊び好きなのにそれに溺れてはいない。 その道でも表面はともかく本心は正義一筋なのにそれを見せない。 一見、遊惰で淫蕩なだらしない人間に見せていて自分の才能・才覚、権威を少しも引けらかさない。 実に爽やかな人物である。 この小説は黒澤明の遺作とし市川崑が「ドラ平太」として映画化し、結構ヒットしたようだ。 同じく山本周五郎の現代小説「寝ぼけ署長」も面白い。 年は40か41。 肥えた体で、その呼び名のとおり寝てばかりいる五道三省という変わった名前の警察署長さんが主人公である。 一見、鈍牛のようにノッソリとした風体で居眠りばかりしているのに、万巻の書を読み難事件を犯罪の手前で防止するので犯罪発生も検挙率も極めて低いという状態を、その在任中に実現し得て、その中身が人間通というか情と実と、厳しさと正義と、弱者・貧者に寄り添っていて、いかにも日本人好みの人情味あふれる昔の長屋物語の流れを汲むチョット昔の現代物語となっていて、作品として秀逸である。 山本作品の主人公の多くはいかにも無能でおっとりとした風情でありながら、時々見せる鋭い知性と胆力、見識が魅力で中国古典での儒教的というよりやや道教的、即ち才が隠れ徳が優りなどというレベルでは無く、広く深く大きな無私の愛に貫かれた人格の持ち主として描かれていて誠に魅力的である。 山本周五郎作品は人情味あふれる、どちらかというと社会正義を体現していくマジメで有能な人格者でありながらそれを表に少しも現わさず飄々と地位権力や富に少しも拘泥せず、淡々と生きる姿が所謂「人格者」然としていないところが良い。 海外の作品ではヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」に登場するミリエル司教も筆者にとって理想の人格の持ち主だ。 仏文学の超長編小説の冒頭に出てくる、シャルル・フランソワ・ビヤンヴニュ・ミリエル司教の奮闘ぶり、心根の優しさ、機転、機知、そして何よりも貧しき人を救おうとする無私無償の愛情深さには驚嘆というより強い憧れを感じる。 「与える」ということに少しでもためらう時に、このミリエル司教のことを思い出すと自らの目先の小さな欲望に嫌悪感すら抱くほどで「与える」ことを精神的に正当化する架空の人物として周囲の人からはやや奇妙に見えるかも知れない「おひとよし」ぶりを少しも愧じるものではない・・・自己満足させてくれるので有難い。 件の司教は自分の収入の1/10だけ受け取り、後の残りは恵まれない人々の教育費として寄付してしまい、自分の立派な住居(司祭館)を病人であふれ返る病院と交換したりもする。 何とも自己犠牲的な行動を明々朗々と楽し気にしてしまうところが好もしい。 年令を重ね強欲になりがちな人格がこれほど恬淡としているところが清々しい。 成年コミックからジョージ秋山の「浮浪雲」の主人公・夢屋の頭「雲」。 この人物はかなり変わっているが結構精神的、哲学的に深い話が出てくるし、高尚な人格とはいかなるものかということは具体的に示してくれる良質な漫画となっている。 色々な人生生活の便利な参考書になった。 殆んどの人間的な自我を滅却して、所謂解脱した人、悟った人として市井の庶民の中に紛れて生きる姿として登場するが、普通の人ではナカナカこの境地にはなれないと思える。 しかしこれらの書物を読み、その人物に接していると想像上の人物でありながら一種清々しい涼風を木陰で寝そべって浴びているような心地良さを感じることができる相手が本や映画なので、わざわざ人に会う必要も無くお気軽で良い。 近々に全国公開された(H25.12.21)「永遠の0」の主人公、宮部久蔵も文句のつけようのない人格者、立派な人として登場してくれる。 チョット真面目で自己犠牲的すぎるキライがあるけれども表題に掲げた理想の人格の持ち主としてリストに加えねばなるまい・・・と個人的には考えている。 あくまで理想であるのでとても凡夫の筆者として無理矢理背伸びをして苦しみたくはないが、ひとつの人生行路の道標として座右に置き、時々親しむのには書物や映画の登場人物の人格というのはとても有難い。 架空の想像上の人物でなく、最も理想とする人はやはり自分の父親であり祖父である。子供なら父親には誰でもゲタを履かせて評価するときいているが、筆者もご多聞ににもれず、オヤジの生き方は理想の人格の体現者として目に映る。大酒飲みで酒乱で乱暴者で短気で一種自己破壊的行動を度重ねていたけれども、無類の子煩悩で弱者病者貧者に慈父のように心優しく接し、奢ったり威張ったりすることはなく、市井のドン底にも平気で交じわり酒を酌み交わし、多いに笑わせたのしませていたようだ。少なくとも子供の目から見上げるとそのような人物に映じていた。 五十歳の早逝も全く不思議ではなく、当然のように受け入れられた。 一見ハチャメチャな人生も死なれてみると、掛け替えのないのない存在感と、激しい愛着と強い憧憬を感じさせる理想の人格の持ち主であった。 母親にはその度胸と義理がたさを学んだ。 祖父は一見茫洋として温順温和な人柄であったが、難しい漢書を読み世のうつろいを、まるで隠者のように超然と眺めている悟人の趣きを持つ人であった。 こうして考えてみると本と親。これが筆者の人格形成の核となっているようだ。人格は周囲を強く確実に感化教化する。そしてその人格も持ち主の人生を自然に、それに応じて変化させる。人生で最も大事な自己修養の目的は人格の陶冶に他ならない。 心して精進したいものである。 追記 マザーテレサ、ネルソンマンデラ、エイブラハムリンカーンなどもその高い人格で世人を導いたように思えるが、どちらかと言うとその行動の方に目が行く。人格と行動振る舞いは根が同一であるので同じことかも知れない。 ありがとうございました M田朋久 |