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■ 平常心というもの | 2013.11. 9 |
多くの人にとって、平常心とか不動心というものは、表面的にはひとつのリーダーシップの技術であり、心の強さの表現であり、それこそ単なる「強がり」である可能性がある。 内心はとても臆病でビクビクして恐れのカタマリであるのに、それを「面」に出さないで平然とした態度を見せるのは、或る意味リーダーとか上長とか責任者とかの身につけるべき基本的技術であることは否めない。 ただし、心理的にはそれは感情の抑圧であり、恐怖心の押し殺しであるとも言える。 本当の意味の平常心を身につける為には、修行とまではいかなくても一定の訓練とか知識、智恵みたいなものは必要であろうと思える。 座禅とか瞑想とか、或る種の「悟り」のような静かな湖面の鏡のように、平明になった心の境地を得ずして真の平常心を自分のモノにすることはできないと考えられる。 世の中というものは殆んどマイナスの情報にあふれていて、特にメディアについてだけ分析しても、心にとってプラスの出来事とマイナスの出来事の報道については、その比率は1:9かせいぜい2:8くらいの割合で何も無い平和平穏の状態を無色透明の純粋とすると、或る意味、泥(マイナス)にまみれた汚水と考えて良い。 そのドロ水、汚水に心を晒して心が汚れないワケはなく、多くの人々の心は自然にしていて汚れていくというのが普通の人の常態であろうと思える。 それも殆んど自覚なくして・・・。 人間の心は自分自身の周囲の出来事に敏感に反応するようで、多くそれは喜びや安心ではなく、恐れを生み出すものであるので、自然にしていて人の心は恐れや心配でいっぱいになってしまうという傾向を持つ。 つまり人間の心と周囲の出来事、それも自分自身に身近で深く関係のある事柄については極めて敏感に反応し合い、結果として「心を痛める」「心を汚される」といったことが日常的に起こっていると思えるけれど、人間の心には一種のサーモスタットのような自己防衛機能も備わっていて、何とか平衡を保っていると言える。 それらのKey wordとして「まぁいいか」とか「仕方がない」とか「しょうがない」とか多少諦念に近いマイナスの解釈に見える言葉で平衡するが、これは決してマイナス言葉ではなく、或る意味、結構前向きで前進的モノ言いである。 ・・・と言うのは何故かというに、そのマイナスのことはさておき、とりあえず前に進もうじゃないか、生きていこうじゃないかという非常に「しぶとい」心根を言外に感じとることができるからである。 さて、このように心の平衡・バランスを保つ為に人々の無意識に行っている心の作業を分析することよりも、少し進んで平常心を得る為のいくつかのアイデアについて書きつづってみたい。 世の中をマイナス、ネガティブな出来事や情報にあふれた泥水と見立てて、心をどのような状態として捉えるかのアイデアは、自分の心をその泥水で簡単に汚染されてしまう布キレのようなものではなく、殆んど汚染されないピカピカに磨かれた汚れにくいガラス製のボトルに見立てて、そのガラスの瓶の中に良い気分、心地良い感覚、善良な考え方をしっかりと密封して入れておいて、どんなに臭くてキタナイ汚泥水にも汚されない、濁されない状態にしておくという・・・ひとつのイメージを持って世の中の出来事に処していくというアイデアである。 心の中に、胸の中に何か好きなように、自由に、とても美しく、素晴らしく、素敵な心地良いファンタジックな、どんなことにも絶対に冒させない、汚させない心のスペースをつくっておき、事あるごとにそこに逃げ込むというアイデアは昔からあるモノで、決して薄っぺらく軽々としたものではない。 さらに進化させて「全受容」「全肯定」という心の態度は平常心を得るのに極めて簡単で理にかなった技術であるが、このことがすぐに腑に落ちる為には、人によっては色々な、哲学的な周辺知識を要するかも知れない。 「あなたに起こるすべての事柄を、何であれ完全に受け入れるならば、絶対の心の平和を手に入れることができる」 「人生を放っておきましょう。そのままにしておくのです」 −stillness speaks− エックハルトットール著より 心安らかに生きる為に、ある種の勇気を与えてくれる言葉ではある。 ありがとうございます M田朋久 |