コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 「あいうえお」の法則2013.10.23

人間の心の状態と、その言動の中で最も良くないモノが不平不満ではないかと思える。

不平不満というものは、ある個人の現状についての単なる否定的な見解であって、所謂、感謝と心の平安と対極にあるものである。

人間は自然にしていて油断していると、あらゆる事柄に、この不平不満を持つ傾きがあるようだ。
油断大敵ならぬ、不満大敵という言葉を或るセミナーで知り、一流の人の転落は油断ではなく不満であるそうな。心が不平不満でいっぱいになって、感謝の心を忘れてしまう結果らしいのだ。
口惜しいことに謝恩とか初心とかをすぐ忘れるのも人間の特質であるらしい。

いくら不満や不平を言い募っても何も改善せず、あらゆる面で悪化しているだけなのに・・である。
このような状態に陥っている人は本当にお気の毒である。

表題に掲げた言葉は、幸福とか成功とかの為の呪文のようなもので「あいうえお」。
分解すると、あい=愛。

ホ・オポノポノというハワイ語の言葉があって、これは「完全」という意味らしいが、この呪文で同時に、
・あいしている
・ごめんさない
・ありがとう
・ゆるして下さい
この四つの言葉を唱えると、自分自身も含めてその場、その環境のすべてが癒やされるそうで、究極の愛の言葉であるそうな。
イハレヤカラ・ヒューレンという名前のアメリカ人が発案したワケではないが、今現在提唱していて、本も出ているし、ネットで調べたらすぐ分かるので詳しくは割愛させていただく。

ハワイ諸島の中で、マウイ島の最高峰が聖山、ハレヤカラで、この山に登ってご来光を拝むと大願成就するということで、セミナー仲間に連れられ2回登ったけれども1度は深い霧で拝顔することなくあえなく下山。
2度目にはご来光を多くのアメリカ人もしくは世界中の登山者と一緒に拝むことができた。
何をお願いしたかは忘れてしまったけれど、そのまばゆい光の荘厳な輝きは、今でも脳裏に焼き付いている。

「愛」という言葉もその概念、言葉の持つイメージというか思いというものも言葉に表現すると、それぞれマチマチと思われて人に説明するときに誠にじれったいが「本当の愛」を知ると、その深い喜びに身も心もとろけるようになるそうだ。
これはSEXの時に生じるエクスタシーに近いものであるらしいが、純粋な愛には肉体の悦楽をつけ加えないと人間は「愛」という高尚な感情とか喜びに向かわないので、神様が性の喜びをつけ加えてくれたのであろう。
普通の人間にとって愛と性は切っても切れない関係になってしまったのも幸か不幸か不明である。
けれども多くの人が世界中共通して「愛」という感情というか、欲求というか、考えというかそういうものにすぐに反応するようで、この言葉は世界共通であるようだ。

ただし、ピンと来ない人や、心に漬物石のように厚い蓋をして愛の喜びを見ないようにしているか、体験するのを頑なに拒絶する方もおられて、誠にお気の毒である。

すべての事・物・人について深い愛の心をもって眺めると、すべてが喜びに変わる・・・。

けれども諄いようであるが、これを実践している人は少ない。
何かしら大きな事件や災害があった時に、愛とか絆が人々の間に噴出することがあるが、概ね平々凡々と生きる日常においてこれを意識して用いることをしないでいると、何かしら「不愉快」とか「不機嫌」とか「ゆるせない」という心の状態になって、何故かしらトラブルばかりつづくということが良く起こる。

次は「う」であるが、これは「運」のことである。
天運が6割、人運が4割というのが通り相場のようで、多くの偉人の評伝や伝説などを読むと、このことがチャンと書いてあって、どんな人も、天運という人も決して「運頼み」ばかりでないのだ。
それ相応、相当の努力や工夫の後に天運に任せる・・・というような態度をとられるようだ。

「運」のマネージメントというものの為に最も大切なのが「縁」や「恩」であるらしい。

そういうワケで「う」の後に「え(縁)」、「お(恩)」と記されている。
運の悪い人、運の無い人というのは普通「縁」に鈍感である。
頑なな心が良縁、優縁をバッサバッサと切り離していって、後になれば成る程サッパリ人が寄って来ない、縁が無い人になってしまう。

ついでに普通、運をダメにする人は恩を忘れる。
忘恩の徒輩に運の良い人物はいない。
一時的に良くても、最終的に没落・転落の人生のようだ。

恩を知る、恩を忘れない人というのは必ず幸運である。
これは断言しても良いし、モノの本にも書いてあるし、筆者の経験でも数多く知るところである。

言い換えるならば「感謝の心」で大いなる幸運の窓口になるのであるけれど、自分自身を含めてついつい忘れる。
そして落ちていく。

「感謝力」つまり感謝する力というものを唱える経営者の方も数多くおられるようだ。
京セラの稲盛和夫さんも近々の講演会ではしきりに「おかげさまで・・」みたいな表現でご自身の「こしかた」を語られていた。
孫正義氏の「六大恩人感謝の日」というセレモ二ーは有名で、その日は会社を休んで会をするとのことであった。
創業時代に自分を助けてくれた経営者の人々、それこそ真正の恩人に感謝をすることを「忘れない」のであるから、このことだけでも孫正義という人物がいかなる人か分かる。

いずれにしても恩を忘れないというのがいかに大切であるか、また忘れてしまいやすいか・・・。

「ありがたがらない事柄や物品は最終的に失われる」
という原理原則があるのではないかと考えている。そのことを裏付ける事実は山のようにあるので、あらためて周囲を著名人も含めて観察されたらいかがかと思う。

その為に理念があり、社是があり、社訓があるように思うが、立派な創業者の写真も会社が潰れてしまっては何の意味もなさず、納戸の奥深くにしまわれてしまうか捨てられてしまうかは最終的にその人物の生きざまにかかっている。

心したいものだ。
人生は最期に奪ったもの、蓄えたものより与えたものの広さ、大きさ、深さによって決まるし、死んだ後に残るのはすべからく「与えた」ことだけなのである。
分かっちゃいるけどついつい目先の欲に捉われて、損をするまい、得をしたい、もっとためたい・・・というのもまた人間の性向・本性なのである。それらに抗って自ら損を切る、与えていくというのが少なくとも美しい人間の行動であろうし、最終的に運の良い人であろうと思える。

ありがとうございました
M田朋久



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