コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 愛の言葉2013.10.17

愛を伝える言葉は数々あれど、適宜、タイミング良くそれを口にするのは結構難しい。

ありがとう
しあわせ
うれしい
たのしい
ごめんネ
さようなら
これらすべてが愛の言葉であるそうな。
出逢えて良かった
愛してる
大好き
あなたが必要なの
それぞれの言葉を少し分析してみたい。
ありがとうはただの感謝の言葉ではない。
それは奇跡、有り得ないという意味。
それに相手に感謝の言葉を表現するということは恩に着ている。
お陰様で・・・という謙譲謙遜のあらわれである。
それらの自分の存在についての関わり方についての御礼は、それこそ礼・マナーの中心である。
そうしてそれを愛の言葉として使うということを意識すると、笑顔にのせて明るくうれしそうに相手を見つめて行うことになり、これが愛の言葉でない筈はない。

「しあわせ」という言葉も、周囲の人々に対する自らの感謝と愛の表明になる。
家庭の中で、たとえば夫や妻が、子供が「しあわせ〜」と口にすることはみんながいるから、みんなのお陰で私はしあわせですヨと自己表現していることになる。
これもまた知っておきたい。
逆に「不幸」とかの言葉の不機嫌とかいうものが愛や感謝がかけらもない不愛(?)そのものであることを気づかされる。
心しておきたい心構えである。

「うれしい」「たのしい」も、しあわせと同じような理屈で愛の言葉である。
それはやや瞬間的で軽いモノであるけれど、目とか表情と声の調子で心を込めて表現されれば充分に愛の言葉になる「ごめんネ」はゆるしを乞う言葉である。
ゆるすというのは愛すると同じ程度の寛かな人間の心の状態である。
本当の愛は、それを(相手を)支配する、所有する、思いどおりにするのとちがって手放すこと、自由にさせること、そしてゆるすこと、すべてを受け入れることであるそうである。

自らは低くして謙虚にあやまれること。
「ごめんネ」と素直に言えることは事情によってはナカナカできないものである。
それを敢えて言葉にすることは状況によっては深い愛の言葉になりうる。

北野武の映画、HANABIのラストシーンで、ヒロインの岸本加代子が自分を喜ばせようと一生懸命頑張ってくれ、最後に海辺で自分と一緒に死んでくれる夫のたけしさんに向かって顔を合わせずに「ありがとう」「ごめんネ」と言葉にするが、その後の二発の銃声と久石譲のテーマ音楽はこの映画の名場面である。

この「ありがとう」「ごめんネ」は「さようなら」も含まれている。

「さようなら」もまた愛の言葉であるのだ。

どんな出逢いも「始りが始まった」瞬間に「終わりが始まる」。
これは絶対の真理であって、例外はひとつもない。
だからこそ仏教的には一期一会であろうし、出逢いのすべての瞬間ははかり知れないほど重く、愛に満ち満ちているべきであろう・・・と思える。

絶対の「さようなら」である死を、いつも自前にありありと思い描けば、すべての出逢いは愛の言葉で埋め尽くされるのがよろしいかと考える。
かんたんな「挨拶」で始まる人と人との出逢い、人と物の出逢いが永遠になる為に「さようなら」という言葉もその最後に思いを至らせる愛の言葉であるのだ。

「ふれあう人すべてに、あなたはありのままで価値があると思わせられるよう努力しなさい。それぞれに自分であるだけで素晴らしいのだと感じさせてやりなさい。この贈り物を与えていけば世界を癒やすことができる」
−ニール・ドナルド・ウォルシュ−「神の対話」より

そのものズバリ「愛してる」が割に軽く感じられるかも知れないが、この言葉を臆面も無く口にできる日本人は少ない。
だからこそ、ありがとうであり、ごめんネであり、しあわせであり、さようなら・・・なのだ。
愛の言葉を人生に数多く散りばめながら生きている人が幸福にならない筈はない。
愛のない言葉の典型が「あたりまえ」で「あなたのせいで私はこんなに不幸ヨ」であるし「皮肉なことにいつまでも一緒ヨ」かも知れない。
何故なら前者の言葉は物事の真実を誤って認識している証であり、後者の言葉があきらかに嘘であるし、最終的にも嘘になってしまうからである。
もちろん、霊的にはいつも愛する人と一緒なのではあるけれど・・・。ムツカシイ問題ではあるにゃあ。

ありがとうございました
M田朋久



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