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■ そうして父にならなかった | 2013.10.16 |
父と母の存在の差異は意外に大きく、育ての親か生みの親か「血」か「育」か、親子関係における「父」の存在は、その呼称の響きのとおり「血々」なのかも知れず、母の持つ「乳」と同じ語呂なのが不思議であるなぁ。 日本の誇るイケメン人気男優の、我らが福山雅治サマ主演の「そして父になる」は小品ながらナカナカ見応えのある佳作であった。 いくつかの映画賞を得たらしいが、確かに「赤ちゃん取り違え」と言う実際に起こった事件をヒントに「その後のてん末」みたいな内容で、割と重いテーマを淡々と心優しい善良な人々を配して、心の細やかな襞襞を描いて、家族における父親の存在の意味と価値と・・・色々考えさせてくれる優良な映画であったと思える。 福山サン演じる仕事で成功し、それに没頭して子供に関わることができなかった父親、6才の男の子と、本当は血のつながりの無い子供を深く愛した孤独な母親。 この夫婦の確執と、一方では貧しいながら子だくさん(・・・と言っても3人であるが・・・)の取り違えた一方の家族の温かい交流。 子供と遊ぶこと、家族と過ごすことを仕事より優先させる「父」と、子育ての巧みな愛情深くアタマの良い母。 とても文章では表現できないので一見してもらいたいが、要するに日本中の、イヤ世界中の父親に観てほしい映画である。 リリー・フランキー演じる良いオヤジ、父親として悪くはないがどちらかというと仕事優先の福山お父さん。 どちらの父も、父は父であって甲乙つけがたい。 個人的には中間みたいな存在が好もしいのだろうけれど、多くの父はどちらかに偏った状態なのではないだろうか。 筆者自身は4人の子供(娘一人、息子3人)を有難くも授かったが、多くの日本人と同じくそれなりに良い母親としての役割を果たしてくれたと思うし、映画の中の母二人も子供を懸命に愛育しているベースがあって、父親が親としてどちらも未熟であることは否めない。 恐らく日本中の「父」たちの胸をグサグサ突きまくっている映画であるが、何も挫けることはない。 父親というのは、その存在感で教育し後ろ姿で子供を育てるのである・・・というのが我が持論であるし、そんな完璧な父親などこの世には存在しないと腹をくくって、自信をもって自分の道を貫けば宜しいかと思う。 奇しくもこの時期、タレントのみのもんたの息子さんが窃盗で逮捕されたが、あのもんたさんですら子育て失敗であった形跡がある。 子育て論も色々あって、千論万言あっても、いくら論じ合って考えても親子のめぐり合わせを超えるものではないし、いくら頑張っても母親を超えることのできる父親はやはりかなり少数派であるのだ。 そうして筆者は残念ながら殆んど父になれないまま人生の大部分、子供にとって大切な時間を一緒に過ごすことができなかった・・・けれども、今のところそれ程の深い後悔は無い。 ダメオヤジでも立派な息子になった例は山ほどあるし、世間的に立派なお父さんの息子や娘がトンデモナイ出来損ないになって社会にいっぱい迷惑をかける例も、これまた山のようにあるのだ。 父も頑張っているんだ。 母がそうであるように・・・。 善良な人々と心優しきマジメな日本人の姿が浮き彫りになると同時に、社会での成功者とそうでない人々とのお金や人に対する考え方のちがいをも知らせてくれた映画でもあった。 それにしても日本人の子育ては、特に母親に限っては割に上手なのではないかと思える。 それが救いではあるなぁ。 ありがたいことだ。 追記 このことは永遠のテーマではないかと思えるのだが、マイホームパパとビジネスパパは両立しないのではないかということだ。 それが両立していると思い込んでいる男性は、多くの女性、それも母親たる女性からするとあまりにも楽観的過ぎるご都合主義的パパであろうと思える。 また、理想のパパを演じすぎると多分に自己犠牲的になり、逆に人生の喜びを大きな代償として払っているようで、子供からは魅力的な父親には見えない筈だ。 男はいつまでも立派な父親になどなれず、永遠に夢見る少年のまま妻に、母に、女性たちに愛されて生きるしかないのではないか・・・と思える。 立派な父親というものは、賢い母親が創りあげたある種の虚像ではないかと思える。 ありがとうございました M田朋久 |