コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 真人間2013. 8.21

人間という「言葉」は興味深い。
人は生物学的表現をすると、カタカナのヒトになる。
ヒトは生まれつき人になるのではなく、人間になるにはキチンと育てられなければならない。
できれば正しい教育を受けなければ、それこそ真人間にはなれない。

ところで、何故「人間」と漢字で表現されるかというと、人と人との間に何かしらの関係性、それも間、もっというなら「ま」というものがあって人間になるということだ。
先日、或る県内では名の知れた産婦人科・心療内科のドクターの講演に参加される羽目になったが、この人と人の間の「間」を愛という風に表現されていたが、確かにそのような側面もあるかも知れない。
・・・がしかし、そんな風に抽象的に、単純に言い切れるのもどうかと思う。

生まれたての赤ちゃん、嬰児から乳児・幼児の間には、ヒトはまだ人間とは呼べない・・・と思う。
何故なら「間」が無いからである。
赤子は母親、もしくは親密な養育者によってダッコされ、愛育され、さまざまな愛情深く温かい刺激を受けなければマトモな人間、少なくとも健康で生き生きとした人間にはなれない。
こんな状態の時には赤子と親の間には隙間はない。
またその方が良い。
この時期には母子の密着が緊密なほど、上手に自立することができる。
つまり、子供の依存欲求をあり余るほど満足させないと、所謂、本当の意味の自立は生じない。
自立した人間とは、人と人とを密着することだけでなく、適当な距離感、即ち「間」を創ることができる。
この間の取り方ができない、上手な人間関係を築くことはできない。
今で言う「空気を読む」ことができない。
ことに日本人はことのほか間を重んじる。
それは時間的にも空間的にもそうだ。
一定の間は、日常の会話にも人と人との間の空間についても言えることで、そもそも時間と空間、即ちこの世の全てにも「間」という言葉が入っている。

時間と空間、つまり宇宙というものと人間の共通点もまた、この「間」なのである。
これは偶然でも漢字の語源遊びでもなく、真の意味での「人間」という存在を誠に的確に、霊妙に表していて、英語のヒューマンビーイングなどよりはるかに奥深い。

社会とはこの人間の集団のことを指すが、人間関係というものの本質を問われていると言っても良い。
中国の古典は、それこそ万巻の書となって今でも世界中の知的な人間の愛読書、リーダーシップの参考書として最良のモノのひとつであるが、そこに書かれている大部分が人間の「応対辞令」即ち「人間関係」について事細かく記されている。

社会における人間の存在の在り方を思う時、その重要なポイントというものが時空の中における間、距離の取り方に考えを及ぼさなければならない親子関係を出発点として成長発達の段階を通して自他の「区別」と「共通」を知り、愛を恐れという基本感情を憶え、特定・不特定、少人数・大人数を問わず人というものに対峙する時に、常に「間」というものを意識しておかないと、真人間として世の中を上手に正しく自立した心を持って生きていくことはできない・・・と思える。

人と人との間には愛だけが存在するのだけれども、それから生じた最も遠距離にある恐れという感情を知り、できるだけ愛にシフトさせ、どんな人についても愛と信頼と尊敬の心を寄せ、親切に愛情深くいたわりの心を持って「在ること」が真人間の道なのである・・・と今考えている。

マヌケ、間抜け、間の抜けた人間とは、極論するならば人ではあっても人間ではないと言える。
自らの周囲に、時宜に応じた適度・適当・適切な空間と時間を創り出せる人が本物の人間、即ち真人間と言えるであろう。

ありがとうございました
M田朋久



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