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■ 風立ちぬ | 2013. 8. 5 |
以前に同表題でコラムを書いている。 我ながら抒情的に良く仕上がっている・・・と思う。 現在公開中の宮崎駿の最新作のアニメ映画の同名タイトルが「風立ちぬ」だ。 堀辰夫の小説と、同時代を生きたゼロ戦の設計者で有名な堀越二郎の物語をミックスして、ロマンチックな歴史物語に仕立ててあり、まあまあの傑作だ。 トシのせいか涙腺が弱くなり、涙がバンバン出る感動映画。 ただし、余計な場面も多く、やや退屈。 かなりカットして大事なところ、即ち制作者のメッセージはもっと詳しく描き込んでも良かったのではないか・・・と個人的には思う。 ・関東大震災 ・太平洋戦争 ・ゼロ戦 ・ロマンス など、アニメ映画的にはおいしいテーマが盛りだくさん。 期待どおりとまではいかないが、宮崎らしい美しい画像と奥ゆかしい会話と幻想的なシーンは宮崎駿の真骨頂そのものであった。 堀越二郎という天才設計者の世界的気作飛行機のゼロ戦は、正確には零式艦上戦闘機、即ち海軍の発注した作品はその航続距離、格闘戦能力、スピード共に当時瞬間的であるが世界最高の性能を誇り、アジア太平洋の空を支配し君臨した。 ・・・と同時に、その美しさはその長さ、太さ、曲線において数センチの変更もできない程の完成美を保っている。 凄いことである。 精妙過ぎて、画像として書き込むのに結構苦労されたらしい。 映画では編隊を組んで飛ぶゼロ戦が最後にチョットだけ出てくるが、その映像だけ実写のようにアニメ的でなかったのがある意味、宮崎のゼロ戦への思い入れが込められているような気がする。 宮崎のヒコーキ好きは有名で「紅の豚」という作品でも、戦闘機の美しさを堪能できるし、主人公の豚さんも男としてのカッコヨサも楽しめる名作である。 飛行機は風を受けて飛ぶ物体だ。 空気というものが無いとエンジンも動かず、翼は飛行機を空に飛び立たせてくれない。 風のようにはかないヒロイン、ナオコさんの生命。 特攻という使命を帯びてはかなく南海の海に散って行ったゼロ戦の勇士たち。 戦後、1機も日本に残っていなかったというゼロ戦。 皇紀2660年に製作された零式と呼ばれた名機はその名のとおり、ゼロ、即ち無そのものようだ。 日本の国のように戦争のひとときを美しく輝き、散っていったゼロ戦とその乗り手たちは今でも神となって日本という国を守ってくれているのだ。 そのように信じたいし、多くの日本人のみならず世界中の人々の心に残る物語としての日本の戦争の記録とゼロ戦の悲劇的な命運を思う時、あらためて日本人の美意識と悲しみと愛を思わずにはいられない。 「風立ちぬ」の小説と映画に描かれた、せつなくとも美しい夫婦愛のように、多くの日本人も妻を愛し、家族を愛し、その延長線上にある国を愛したのだ。 その象徴である天皇のように。 8月の終戦記念日を前に戦争にまつわる映画がいくつか公開されるが、それらのいくつかは日本人の当時の意識、それも武士道的愛の精神に満ちていて、昨今のアジア諸国、中国や韓国の表明する歴史的認識とは少し隔たりがある。 そうしてそれらの国々においてすら歪んだ反日教育とマチガッタ歴史認識によって、日本人までもがそれらを無邪気に受け入れていることが不思議でならない。 宮崎駿の風立ちぬですら、そのような人々のトレンドを少し受入れているように見える。 「風立ちぬ」 この言葉の持つ独特のニュアンスのとおり、ゼロ戦もまた日本人そのもののように世界中にその強さ、美しさ、はかなさを戦争という悲劇的で特殊な場面設定で生まれさせられ、消えていったのである。 ありがとうございました M田朋久 追記 これまた以前に書いたことであるが、自己愛は家族愛、郷土愛、国家愛(愛国心)と拡がりを見せていくべきものであるが、単純に自愛と他者愛との両者への愛と分けた時に、他者愛が同胞愛と表現されるなら、同胞が同国人なのか世界中の人々、つまり人類愛なのかと問われた時に、少し知的な人であれば人類愛と即答するであろう。 自国の利益だけを愛したり、自国民だけ愛したりするから戦争になるのだ。 ユネスコ憲章には「戦争は人間の心の中から始まる。本当の平和の為には、まず人間の心の中に平和の砦を築かなければならない・・・」とあるそうだ。 平和の砦というのが、真の意味の人類愛であるのは言うまでもない。 愛は理性とちがい、矛盾を包み込み、対立を乗り越え、価値観や性質、性格や宗教を押し潰し、すべての人々を等しく愛する・・・。 マザーテレサがしょっちゅう述べて来たことであるが、先日芳村思風という哲学者(感性論哲学)の講演会で上記のような話を聞き、深く得心したワケである。 風立ちぬ いざ生きめやも 生きることと愛すること、学ぶことは等しい価値を持つのだ・・・。 多分。 |